生活圏での意思決定

地域の実情にあった意思決定の問題は知的障害者にとって決定的に重要な問題です。この場合、地域ってどこの事なのかをはっきりとさせていかなければならないなと感じています。僕にとって、地域の実情というのはいわゆる「地域主権」の地域とは違って、当事者の生活圏といった小さな地域です。生活圏というのは本人が移動できる範囲ということです。

名東福祉会の場合、名古屋市という日本でも大きい方から3番目か4番目の大都市の場合、ちょっと話がややこしくなります。大都市には地下鉄とかバスとか自由に利用できます。ですから、実際には地下鉄を利用するならば地下鉄の駅員さんとか、途中で立ち寄るコンビニの店員さんとかも生活圏の人々に入るかもしれません。生活の場面でで会う人たちとの間で、うまいこと折り合いをつけ、個性あふれる個別の支援プロセスを経て、本人の具体的な生活をどうするかに絞った意思決定が行われます。

ところが、昨今、話題となっているような「市民後見人」というときの「市民」は特定の町の特定の生活圏とは無縁であることがむしろ普通でしょう。一種の市民運動ですから、やはりそれなりにプロフェッショナルが出現します。支援が進化すればするほど広域でネットワークを形成するでしょうから、最終的には個別の生活圏とはかけ離れた後見にならざるを得えません。そうなると、全国レベルの同様の活動と連携し、さらに外国の諸団体とも連携することも可能性として考えられるわけです。すなわち、もともと市民後見人における「市民」の意味は行政や国と対峙するという意味での「市民」であることが分かると思います。

もちろん市民後見人そのものを否定するというわけではありません。むしろ権利擁護は特定の生活圏で支援センターが単独で解決されるほど簡単な問題ばかり扱うわけではありません。権利擁護においては戦略的に広域のネットワーク団体と連携する必要がある場面もあると思います。ただ、ここで確認しておきたいのは、生活支援センターが生活圏で生活する様々な人々とのやりとりから離れ、本人の意思決定の支援をすることはあり得ないという事。その作業ではえらく面倒で、時間のかかる地道な作業です。常に個人情報の保護とか、権利関係の確認とか、権限の確認とかを強いられます。いいかえれば生活支援は、生活圏の人々の個人の権利と常に衝突する要素をはらんだ仕事なのだということです。権利擁護はもろ刃の剣なんだと思います。

結局、支援センターは本人の権利を尊重した個別のケアプランを策定するといいながら、意思決定プロセスにおいて、その背景となっている<個人主義>を地域の中でどうやって乗り越えて行けるのかが今日的課題だと思うわけです。僕は支援センターの人たちには生活圏の住民から、個別の権利を乗り越える力が付託されていると思っています。たいへんですけども。

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