障害者福祉でもっとも必要なのは、利用者と支援者の生きた往来を明確化して反復・修正していく技術だと思います。
福祉の世界は原理・原則の議論が大好きです。
例えば本人主体、選択の自由、権利擁護、自己権利擁護、虐待防止、透明性、説明責任、ノーマライゼーション、福祉理念・・・
数え切れない「理屈」あるいは「理」に関する言葉が並びますが、ひとつひとつの言葉はその定義すら定まりません。
人は一般に、原理原則の議論が大好きです。まるでこの世は「理」によって支配されているかのようです。
しかし原理主義は厳格主義につながり、例外を認めない硬い福祉になる恐れがあります。
「理」に対して「気」という言葉があります。
空気、雰囲気、人気、元気、活気、気分、意気、殺気、語気、やる気・・・
施設を訪問して利用者の人たちの記録を読めば、「気」がつく言葉が多く目に付くはずです。福祉の世界では「気」も重要な言葉として私たちの仕事を支配しています。
特に「空気」という言葉は問題があります。ひところ「空気が読めない<KY>」という言葉が流行りました。この言葉によってどれだけ福祉施設の多様な試みがつぶされて来たでしょう。
私たち知的障害者福祉にかかわるものは、「理屈」でもないし、「空気」でもないところで動くしかないのではないかと思います。
私たちはお互いに影響しあう「文脈」の中で生きています。一連の行動や環境の流れといったらいいのでしょうか。
私が行動療育について学んだことで、最も重要であると感じることは、子供と療育者の相互の行動の文脈の中にこそ療育の本質があるという事です。
これがよい支援であるのか、望ましくない支援であるのかは、やってみるまで、あらかじめ誰も決めることができません。
その価値は、支援を必要としている行動の筋道や背景(文脈)をみなければわかりません。本人とまわりの人たちの試行錯誤の結果としてその価値が決まるのです。
モニタリング(評価)という手法があります。評価というとちょっと意味が狭くなります。私は、特定の福祉的対応を行うことによって新たにどんな課題が必要になったのか、新しい「道」を見つける作業のことと考えています。
私は、提供する福祉の価値を左右し、自分たちをより向上させるものは自分たちの行動と利用者の行動をモニタリングすることにあると思います。それは自分たちがまさにそこに生きて動いているその「往来」を見つめることと言い換えてもいいかも知れません。人の往来を見つめ続け、実際にその往来に立って歩くことで人は支援技術を磨いていけるのだと思います。