半径500メートルの街づくり

半径500mの街づくりというコンセプトがある。高齢者になると行動範囲が狭くなり、移動できる距離に制限をうける。そこで、半径500m以内にスーパー、コンビニ、金融機関、学校、病院、介護サービスなど、生活に必要なものがすべて揃う街づくりを行おうという構想が生まれた。この構想は高齢者だけではなく、子どもや障害者も含め、多くの自治体の街づくり政策で取り上げられる。

名東区の人口は平成21年12月現在、160430人。人口密度は8252人。半径500mの円に直すとだいたい25ブロックほどに分けた街づくりをすると歩いて支援拠点に通える街のイメージに近づく。

名東区に障害がある人はどのくらいいるだろうか?

やや調査が古くなったが、平成17年度の障害者白書によれば人口1000人に対して
身体障害者は28人
知的障害者は4人
精神障害者は21人
という数字がある。白書では国民の5%はなんらかの障害を有しているとされている。

これを機械的に名東区に当てはめると、8000人となる。その上、高齢化が進んでいることと、法制度の改定等で障害者支援の対象の拡大もあり、支援の対象となる障害がある人は増え続けている。

先に述べたように、名東区内を25ブロックに分けて考えると1ブロックに320人の障害がある人を支援することが可能な拠点を設置する必要があるということになる。拠点は学校、幼稚園、保育園、病院、老人ホーム、障害者施設など公共施設はもちろん、障害がある人が働く場所やNPOや自治会組織のような非公式の組織でもいい。また建築会社や生活用品店、食料品店に至るまで「支える人の輪」ができるのが望ましい。

問題は、そうした事業所が出会い協力し合うことが難しいということだ。教育と福祉、医療と福祉、企業と福祉と聞いただけでいろいろ話がややこしそうだ。しかしながら
これらの支援組織が連携しあってこそ、障害がある人の生活は向上する。

25のブロックのひとつひとつの中に人のつながりがほしい。320人を協働で支えるようになって人の顔が見える支援ができる。現在、わずか3名のスタッフで、名東区8000人の相談支援にあたることになっている。もともと公的なしくみだけで街づくりを行うことは不可能なのだ。むしろこうした行政や法制度に頼るような話は、大きな話になればなるほど嘘話になりやすい。

考えてみれば、街づくりは公共サービスや制度を整備すれば済む話ではない。人と人が支えあうことが必然であるという街をつくるには、その街に済む人が共同意識を持つことからやり直さなければならない。それまでは
「いつも御世話になります」
「こちらこそ」
「先日はどうも」
「例のような話でまた御世話になりたいんですが」
「それはこちらとしてもありがたい事ですからご遠慮なく」
という人間の数を増やしていくしかない。道は遥か遠い。

お見舞い

糖尿病と腎臓病によって歩けなくなってしまいました。
「足の1本や二本、なんてことはない、はい切ってください」
とお医者に言おうと思いましたが、いざ無くなってしまうと思うと、こんな、小さな足の小指1本でもいとおしくなり切断をすることは選べません。

腎臓病のほうは大学病院で腕に針を入れやすいように手術をし、やっと退院したので、自宅の近くの病院へ一日おきに透析に通うようになりました。
なにごともやってみなければその辛さがわからないものです。あるとき、
「こんな痛い思いをするくらいなら死んだ方がましだ。」
と娘に愚痴を言ったら、ひどくしかられたので、それからは愚痴をいうことも控えています。

このところ、ほんとうに毎日、いろんな人がお見舞いに来てくれます。みなさん、異口同音に
「想像していたよりも元気でびっくりした」
「元気な顔をみて元気をもらえた」
とおっしゃってくれます。こんなむさ苦しい顔をみて何が・・・と思ったり、何も役にたたず、さらに娘を縛り付けてと思ったりしますが、名東福祉会では職員の組織的な研修が始まり、着々と前に進みはじめたことを感じ、みなさんの元気の元になるなら、ひとつまたがんばらねばという気持ちになってきます。
ありがとうございます。

2009年12月11日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝

知行合一

レジデンス日進は長期滞在用の個室10室とショートステイ用居室がある4ユニット構成の施設だ。レジデンス日進を建設するとき、私たちの法人はこの施設に、二つの通り名をつけてイメージを伝えようとした。
ひとつは「長期滞在型ホテル」。そして、もうひとつは「最後の砦」。
レスパイトケアを目的としていつでも誰でも楽しく利用できるようになることと、地域生活の最後の防衛線として生きていくことのふたつをその呼び名に託した。

レジデンス日進は、実際のところ、その両方の使われ方が行われる。楽しい方はいい。問題は厳しいほうだ。
成人期の知的障害者は、ときおり、親に対して爆発的な行動を起こすことがある。入所施設は、そうした人を一時的に受け入れることが必要になるときがある。

地域で厳しい行動の問題を抱えた人を受け入れることは、それだけで共同生活をする利用者の生活にリスクが増す。
だが、リスクがあるからといってそうした厳しい状況にある利用者の受け入れを拒否していれば、地域生活の最後の砦としての大儀がない。
たとえ大儀のためとはいえ、共同生活を行っている利用者を、一定の危険に晒すことは、それはそれで福祉の理念に背く可能性がある。難しい。

先日もそうしたことがあった。
通所施設のスタッフ、レジデンス日進のスタッフ、児童行動療育センターのスタッフが連携してこれにあたった。
いつ事故が起こるかもしれない状況で、気をゆるめることなく細かい対応にあたり、笑顔を絶やさず、受け入れた利用者のショートステイにあたってくださった。プロフェッショナルな行動だった。

使命を知っていても行動を起こさなければ知らないのと同じ。みなの知行合一の行動は賞賛に値する。
わたしたちの使命に従って、対応してくれたそれぞれの現場のすべてのスタッフと、ショートステイの利用者と生活をともにしてくださった利用者と、そのご家族に感謝申し上げたい。

障害者福祉は子ども手当てよりも軽く見られている

民主党は子ども手当ての財源を探すことができない。
民主党の平野官房長官は19日夕の記者会見で、子ども手当の財源について、地方自治体や企業にも負担を求めることを検討する考えを示したという。
民主党のマニフェストには全額国費と明記されていないため、地方財政に財源を求めることには正当性があると考えているらしい。
障害者福祉予算は地方財政が支えている部分が大きい。地方の財源が子ども手当てに使われれば、結果的に障害者福祉が抑制されることにつながる。

マニフェストは国民との契約だと言う。そんな契約をした覚えはないという人は多いだろう。民主党に投票した人の中にも。
障害者自立支援法を見直すことに希望をもって投票した人に対し、
「障害者福祉の予算を子ども手当てに回します。それがあなたがたの契約ですから」
と後からいわれたら、有権者は「騙された」となるのではないか。
選挙でマニフェストに掲げたからには実現しろ、というのではない。そもそもマニフェスト選挙がおかしいのだ。

自民党も巻き込まれたマニフェスト選挙は国民に美辞麗句を並べる甘言競争になった。
今後、野党もマスコミも、マニフェストを実現しているかどうかをチェックし、実現を迫ることになるが、そうなればさらに政策の矛盾が深まっていく。

40兆円(消費税に換算して25%)の不足財源は消費税を上げなければどこを探しても見つかるはずがない。
マニフェストの呪縛から解かれない限り、実際の福祉現場の混乱は止まらない。

地方分権と地域福祉

「地域主権」あるいは「地方分権」の議論が活発だ。地方分権が進めば、「地域福祉」が進むという人もいる。とんでもない誤解だ。

地域福祉は地方分権とはまったく別物の概念だ。地方分権が正面から国会の場にあがってきたのは、例の小泉構造改革の「三位一体の改革」からだった。
構造改革路線が転換した今でも、この地方分権に関する論議はいまだに止まっていない。

その代わり、地方が疲弊した原因は中央の官僚にあり、官僚をたたいて地方に行政の権限を渡せば国全体が良くなるという論理が展開されている。
しかし、中央の官僚が少なくなっても、地方の官僚が増えれば同じことだ。

北欧のような福祉がやれない理由のひとつに、日本の人口が取り上げられることがある。
例えばスウェーデンは人口900万人。スウェーデンは小さい国だが、ボルボなど世界的な企業がある。この財源を基にして高福祉を実現できているという論理だ。

こうした考え方はまったくおかしな考え方だということはすぐにわかる。
例えば、愛知県は700万人だから人口的にはスウェーデンとよく似たようなものだ。さらに愛知にはトヨタ、三菱など日本を代表するような企業がたくさんある。
そこで、愛知県が独自の福祉政策を実行する権限をもてばスウェーデンと同じように、高福祉の県にすることができるといっているのと等しい。

もしそんなことをすれば、三重県の人も岐阜県の人も愛知県に入ってくる。
逆に、企業はそんな県にいても税金ばかり払わなければいけないため、どの県に移動しても餌食になるだけだからどんどん外国に移転するだろう。

国としての地域間の財政の調整制度をしないで、地域ごとの福祉の競い合いをさせようとしても、それはできるはずがない。
財源がもともと少ない地方は、福祉をやろうにもやることができない。競争のために地方分権の「美名」の下で地域福祉を進めれば、破綻する県が続出するだろう。

自民党は道州制を提唱したが、財源の調整制度について問題が解決されたわけではなく、地方分権の規模を調整しただけで、矛盾はなんら解消されるわけではない。

そもそも、地方分権は小さな地域の中央集権だ。地域ごとに強烈な中央集権になればかえって行政を見て福祉をやることになる。
知事が変わるたびに変な障害者福祉政策が打たれたり、消滅したりではたまったものではない。

地域福祉は、人の生活現場のまわりに人が集まり、和をもって支援行動を継続することだ。
必要なことは国家観に根ざしたしっかりとした国としての方向性。
日本のどこへ行っても地域福祉の風土が担保される制度。
地方分権とはなあんにも関係がない。

国家観がしっかりしていないと地域福祉はできない。

医療と福祉の連携

癌の代替治療について、いろいろ知る機会を得ることになった。日本でもアメリカ式の告知で「あなたは余命後何ヶ月です」と告げる医師が増えた。ところが、日本の場合、アメリカのように患者を支える仕組みがないため、非常に強い不安を抱いたまま患者は医療から放り出されることが多い。

日本の医療費のうち、癌の治療にいったいいくら支払われているのか。特に抗がん剤の費用は高く、全体で5兆円から10兆円以上の金額になる。もちろん、有効であれば文句はいわない。ところが、日本で普通に行われている癌の標準治療である「切除・抗がん剤・放射線治療」の有効性については成績が悪く、様々な議論がある。最近では切除についてはできるだけ患者負担を減らすように技術が進歩してきたものの、抗がん剤の利用方法については問題が多いといわれている。放射線治療にしても最新鋭の機械は保険は適応されない。

医療機関で普通に行われいる「標準治療」は対症療法でしかない。癌を根本から治癒するようなアプローチは医療機関ではほとんど行われていないといってよい。
とはいえ体の中に常に発生してくる癌細胞を異物として排除する免疫機能の不全が原因であることは明らかだ。免疫機構が不全になる原因はストレスが多い生活やバランスを欠いた食生活など、問題がある生活習慣と密接に関係していることもわかっている。
わかっているのに医療でそこにアプローチしないのは、やりたくともそれができない医療制度となっているからに他ならない。

医療、福祉、教育は一体的に連携して個々の患者や障害者、高齢者や幼児など、支えられるべき人を支える仕組みが必要だ。
日本の医療や福祉はヨーロッパのものと比べても、技術的にも熱意も比べ物にならないくらい優れている。にもかかわらず、患者や障害者の安息が得られないのは、個々の機関がバラバラに動いていてそれぞれが機能不全に陥っているからではないか。

成果を出せない日本の癌の医療費はあまりにも使い方が偏りすぎてはいないか。もっと代替医療や患者ケアや福祉的アプローチに大切な医療費を使うべきではないのか。その一方で献身的に福祉に力を注いでくださる医師の人たちがいる。医療費の仕組みを見直し、地域医療の制度を変え、地域医療を支えてくれる医師たちが福祉事業の中でもっと動きやすいような仕組みができるのではないのか。

となりのブログで、自立支援協議会が名古屋市の施策につながらない点について問題提起されていたが、医療と福祉が手をつないで事業ができる仕組みについてもっと議論ができないかと思う。

和の幸う地域

***
わたしたちは「和の幸う国」をめざす。
日本書紀が今に伝える「憲法十七条」が「和を以って貴しとなす」の一文から始まるように、いにしえより、私たちは「和」の精神を重んじてきた。わたしたちは、これからも和を貴ぶ国であることを誓い、また、この精神のもと、和の先導者として国際平和の実現に力を尽くすことを誓う。
***

上記の文言はこの7月17日、日比谷公会堂で開かれた「日本よい国構想」のサマーフォーラムで読み上げられた理念だ。このフォーラムは先ごろ突然辞任表明した中田宏横浜市長、山田宏東京都杉並区長、中村松山市長が中心になって開催されたものだ。もちろん橋本大阪府知事とも連動している。この宣言から、中田横浜市長らが、聖徳太子の十七条憲法の精神を国家経営の理念として掲げていることは明白だ。

私たちの国が最も大切にしてきたものは「和」である。このことに異論を挟むものはいないだろう。地方自治や道州制の動き、あるいは政党の選択はさておき、私が極めて重要と思えるのはこうした「地方自治派」の首長が一応に「和」を貴び、「温故知新」や「日本の伝統」を前面に掲げていることである。これから日本の政治はどちらにせよ、変わっていかざるを得ない。しかし、どう変わろうとも、「和」を貴ぶ精神が廃れてしまうことだけは徹底的に防がなければならない。

もちろんフォーラムでは紹介されなかったが、十七条憲法の第六条では、
「六に曰く、悪を懲(こ)らし善を勧むる者は、古(いにしえ)の良き典なり。ここをもって、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず�(ただ)せ。それ諂(へつら)い許(あざむく)者は、国家を覆(くつがえ)す利器なり。人民を絶つ鋒剣(ほうけん)なり。また佞(かだ)み媚(こ)ぶるものは、上に対しては好みて下の過(あやまち)と説き、下に逢いては上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それ、これらの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。」
とある。

和を貴ぶためには、積極的に和を乱すものと対峙し、これを懲らしめる事とある。面白い(?)のは、上のものに対しては部下のあやまちを説き、部下と会っているときには上のものの悪口をいうようなことは大乱の本であると説かれていることだ。残念ながら、こうした行動は、現在の日本の政治、学校、会社、福祉施設のいたるところで見られる行動だ。よい組織、よい地域をつくるためには、人の善を積極的に知らしめていくことが必要であると同時に、組織の中の小さな悪も見逃してはいけない。なかなか難しいことではあるが、「和」を成すために必要であることは論を待たない。

名東福祉会の利用者は、障害がありながら、賢明にその日を生き、地域の人々に少しでも喜んでいただけるよう、その人の能力に応じた仕事をしている。
パンを作っている天白ワークス、大人気の布製のひよこや陶器をつくっているメイトウ・ワークス、焼き菓子を作っているロト、そして先ごろオープンした障害者スポーツセンタ-内のカフェ・メイトなど、名東福祉会の
30年に及ぶ地域福祉の歴史の中で、徐々に地域の人たちの協力を得ながら、こうした事業が成り立ってきた。これは地域の方々の「和」の精神なくしてはなし得なかったことだと思う。

この小さな「善」を実践し、ひとりでも多くの地域の人たちに知らしめ続けることが、私たち支援者の使命であり、和のさきはふ地域づくりの第一歩である。

後援会総会

7月6日、名東福祉会後援会総会がレジデンス日進の2階、地域交流室で催されました。

林後援会長の挨拶、理事長の挨拶、その他型どおりの報告がありました。いつも、理事長挨拶が厳しい内容で長いのでヒヤヒヤしていましたが、暗に相違してとてもわかりやすく、
「この後援会は家族会の方と地域のボランティアの方々で構成されているたいへん有意義な会です。
この福祉状況が最悪のときでも、家族が一生懸命力を合わせ明るく楽しく生活し、また御世話になった人に感謝すると、職員達も明るくなり、一生懸命お世話してくれ、利用者たちも落ち着いて楽しく日常を過ごしてくれます。
そうした姿を見た地域の人たちの賛同の輪が広がっていき、この福祉状況を乗り越えていくことができます。」と、感謝の気持ちを込めて理事長は挨拶しました。

みなさんの顔がとても輝いていましたし、私も嬉しくて、病院から無理やり出てきたところながら、ご挨拶をさせていただきましたら、万雷の拍手があって、一緒に私も皆さんの幸せを祈りました。

各施設の施設長達からそれぞれの発言があり、親近感を感じるひと時でした。

この後、清水睦子さんの朗読をお聞きしました。題は藤沢周平の「こぬか雨」。人は刹那的な出会いの中に、身を賭してでも出会った人を助けることがあることを教えてくれ、ジンときました。

大竹さんの竪琴のライアー演奏がありました。演奏にあわせてみんなで「ふるさと」を歌いました。不思議なやさしい音がでる楽器で、みんなと歌っていると幸せな気分になり、時のたつのを忘れ、素敵な雰囲気に浸りました。

遠くから駆けつけてくださった清水さん、大竹さんありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

2009年7月11日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝

高齢者医療難民

北欧の障害者施設を見学すると、ほとんどの利用者が高齢者であることに驚く。考えてみれば高齢者は障害を抱えることが多く、あえて分ける必要はない。確かに、障害者と高齢者を分けるのではなく、融合してケアするような仕組みがあった方がいい。

高齢者医療と高齢者介護がまともに機能していなければ、障害者施設の充実はない。ところが、日本の高齢者医療は崩壊寸前だ。高齢者医療が崩壊すれば障害者福祉も崩壊する。

吉岡充先生と村上正泰氏の「高齢者医療難民 介護療養病床をなぜ潰すのか」(PHP新書,2008年12月)を読んだ。
吉岡氏は東京八王子上川病院理事長。NPO全国抑制廃止研究会理事長も兼務。
村上正泰氏は1974年生まれのもと財務省官僚。厚生労働省に出向し、平成18年度の医療改革で医療費適正化計画の枠組みを担当し、思うところあって財務省を退官。あの村上水軍で有名な故郷の因島に戻った。

この本を読むと、小泉構造改革当時、いかに医療改革の出発点の目標とはかけ離れた「改革」が断行されてしまったのかがわかる。
実態に合わない無謀な「医療区分Ⅰ」という患者の医療ニーズの重さの枠組みを導入し、医療費を抑制するやりかたは、障害程度区分で用いられた方法を連想する。
負担の押し付け合い。そのあげく、結果として負担が減ったのは公費、その中でも国庫だけ。この歪められた改革の構造は、障害者自立支援法とまったく同じだ。

高齢者や障害者をケアするはずの家族や地域社会が徹底的に破壊され続けてきた。私たち日本人は今そこを問われているのだと思う。
また「より良い生を生きる」は「よりよく死ぬ」ということでもある。尊厳のある生は、尊厳のある死ともつながる。私たちはどうやって生き、どうやって死ぬのかを正面から考えていかなければこの問題は終わらない。

家族と地域共同体の再構築・・・この難しい問題に新しい福祉の扉を開く鍵があるのではないか。障害者域福祉関係者には是非読んでいただきたい一冊だ。

世襲批判の批判

人間の行動は環境から影響を受けると同時に、環境に対しても影響をあたえる。子どもにとって、親は環境そのものであり、親の行動が子どもの行動に影響を与えると同時に、子どもの行動も親の行動に影響を与える。

また親の行動は、地域社会の成員にも影響を与える。親は障害がある子どもにとって最良の教師であると同時に、地域社会の人々にとってもモデルともリーダーともなりうる。

逆に、親は子どもの行動形成にとって最悪のモデルともなり、同時に子どもは親にとって最大の敵にもなりうる。親が子どもの福祉の破壊者になりうる可能性さえある。「子殺し」という言葉があるが、この豊かな日本で障害がある子どもを死に追いやってしまった事例は枚挙に暇がない。親は、自分自身がそのような存在になりかねないことを薄々知っていると思う。同時に、障害がある子どもの兄弟は、そうした不幸で恐ろしい事態にいつなるかわからない不安を抱えながら、そうした事態にならないよう踏みとどまりつつ日々奮闘する親の姿を見ながら成長していく。

日本の知的障害者福祉の充実に、親が果たしてきた役割を否定する人はいないだろう。また、そうした親の行動を理解して無言の協力をしてきた兄弟の存在もある。

知的障害者福祉においては、家族でなければ、自分自身の運命に対するあきらめと、暖かい支援に触れたときのありがたさと、こうすべきであるという信念を共存させることは難しいのではないか。
もちろん、家族以外であってもそうしたことができないというのではない。だが、家族であれば、収益や利権や名声とは無縁の世界で奉仕することができる可能性があり、親が望んだ夢を諦めと共に継承していくエネルギーもあると思う。

日本の知的障害者福祉は、法制化されてからを見ても60年近くになる。世代でいえば完全に2世代だ。そういえば、「世」という字ももともとは「三十」という意味だそうで、本来「世」は親子間の関係が横たわっている文字だ。知的障害者福祉の世代間の継承はすでに進んできている。そうした家族間の継承があって福祉はなんとかここまできた。

知的障害者福祉に限らず、親子間の文化の継承がなければ伝統は存在しない。これはヨーロッパにおいても同じだ。老舗、芸能、学問など、すべての伝統が親子の関係を除いては成り立ちえなかったはずだ。

今日本の政治は「世襲批判」に明け暮れている。なんという低レベルな論争なのかと思う。

官僚批判の批判

日本の公務員は各国と比較して多くない。平成18年8月の内閣府経済社会総合研究所による調査では、
「我が国の公務員数は、約538 万人、人口千人あたりでは、42 人となっている。(中略)イギリス98 人(フルタイム換算職員数78 人)、フランス96 人、アメリカ74 人、ドイツ70 人となっており、日本の公務員数の水準は相対的に低い」
とある。日本は「大きな政府」というのは嘘だといえる。

http://www.esri.go.jp/jp/archive/hou/hou030/hou021.html

日本は政治家が率先して公務員をたたき、公務員の給料をカットすれば人気が出る。だから選挙の度にそうしたパーフォーマンスが行われやすい。

過去に、公立保育園の給食の担当者が1000万円を超える給料をもらうという事例が紹介された。確かに民間人の相場からすれば非常識ともいえる高給だ。その一方で、ある国立大学法人の医学部の研究科の部長(いわゆる学部長クラス)の平成19年度の収入はいろいろ入れても1300万円だった。同クラスの学歴を持つ民間人の場合のおよそ2分の1から3分の1。一般に、高ポストの公務員は民間人に比べて相対的に収入が低いともいえる。ところが、政治家やマスコミは反感も買いにくいため、高いポストの官僚があたかも高収入を得ているように批判する。

官僚政治、官僚主導ということばはここ10年の間、随分聞かされてきた。しかし、よく考えてみれば、行政に不慣れな政治家が、部下である官僚なしで政治がやれるはずがない。

福祉の場合、官僚の存在が非常に重要だ。
自立支援協議会は、地域の収益性の低い事例について福祉の担い手である民間の社会福祉法人やNPO、株式会社の利害関係を調整する役割だ。自立支援協議会が地域の福祉サービス機関の利害調整に成功し、地域に良質なサービスが提供される体制を維持するためには、最終的に許認可権を持った官僚の存在がなければ難しい。

人気取りを目的とした官僚批判はやめてほしい。福祉サービスのさらなる荒廃につながりかねない。

障害者ケアマネジメント従事者指導者研修

国は障害者ケアマネジメント従事者指導者研修を行っている。この研修に参加するものはそれぞれの県の推薦を受けて国が主催する指導者研修に参加する。
その指導者研修に参加したものは、地域の研修を行い、学んだことを地域の障害者ケアマネジメント従事者に対して研修を行うことになっている。

今回、名東福祉会のこのブログのとなりの小島一郎の支援センター日記」のブログ主が参加することになった。

その際、
・都道府県研修実施上の課題と解決方法
・都道府県自立支援協議会と研修実施の関係
に関する事前報告レポートを提出することになっているという。たいへんな課題だ。

そこで、おこがましいが、せっかくの機会なので、福祉サービスの提供者側の人間として、国の障害者ケアマネジメント従事者研修のあり方について、ひとこと言わせてもらいたい。

私は、研修上の課題は、障害者ケアマネジメントの理念が従事者に浸透しにくいことであると思っている。障害者ケアマネジメントの基本理念は
1 ノーマライゼーション
2 自立
3 主体性・自己決定
4 個別支援
5 エンパワメントの促進
だ。これまで、誰もがどこかに違和感を覚えながら、それでも国の方針であったし、自分自身もそういうものだと思っても来た。ではあるが、そもそもこの基本理念が日本の社会に合致しているのか?を冷静に考えてみると、やはりどこかおかしい。

障害がある人のQOLは自立や、就労やそれにともなう収入の向上によって必ずしも高まらない。
障害者の主たる社会資源である施設を否定的に考えている。
生活の充実は帰属する集団の一員として擦りあわせを通じ、連帯感を形成していくときである。それが施設であっても構わない。
国から提供できるサービスが貧弱であっては計画の立てようがない。
本人の独善的な主張を押し通してもかならずしも本人の幸せの増大に結びつかない現実がある。

こうした違和感には目を瞑り、これまで、地域や家族の連帯感について障害者ケアマネジメントは意識的に避けてきた節がある。

一方で、今、日本では、グローバリズムや構造改革への強い批判が行われている。これまでグローバリズムがもたらした、日本の伝統や、地域や企業の結束が分断されてしまっていることに対して揺れ戻しが起きている。
これは別の言い方をすれば、ナショナリズムの台頭といってもいい。

私はナショナリズムが悪いといっているのではない。そもそも、どの国もいまやナショナリズムをもとに動いているし、グローバリズムももともとはアメリカのナショナリズムの具現化の装置ともいえる。そういう時代において、福祉もナショナリズムとは無縁であり、この国民的意識を避けて福祉資源を検討しても見当はずれになってしまうということを言いたいにすぎない。

ナショナリズムは、その成員の結束を高める方向に動く。そのため、成員の中に弱者がいれば必ずその人を救う方向に力が働く。そうでなければ、国家が霧散してしまうからだ。相互扶助や、自助の精神は、もともとナショナリズムとは矛盾しない。日本が手本としているといわれる北欧のスウェーデン、ノルウェー、デンマークはナショナリズムが強い国であるし、障害者ケアマネジメントの手本となっているイギリスはさらにナショナリズムが強い国家だ。そのナショナリズムを基盤としたうえで、徹底した地域の自助があり、その上に高福祉高負担社会が実現している。

障害者に対するサポートをマネジメントするという発想は必要だとしても、本来、大前提として私たちの国に、自助の精神がなければ、社会福祉の資源など瞬く間に枯渇する。

これまで社会福祉行政でナショナリズムを徹底的に否定し、グローバリズムを賛美し、アメリカ型の福祉を目指し、自由と個人主義に意識を集中してきたために、障害者のケアマネジメントの資源がどこにも見つけられないという矛盾に至ったとはいえないのだろうか。自助の精神や相互扶助の精神を「権利擁護」という概念で壊してしまったうえで、障害者ケアマネジメント従事者に、障害者をサポートするための社会資源を開発することが使命であることを「研修」してもどうにもならない。

ここでは、問題を解決するための手がかりは自助や相互扶助の精神を醸成するための地域に残された遺産を活用すること。それは地域の伝統的施設かもしれない。自立支援協議会ではなく、村の寄り合いや商店街の会合かもしれないし、町工場の勉強会や消防団なのかもしれない。そうした地域ごとの遺産を活用するための施設実践を重視し、家族会活動や地域活動や、それを側面から支えていく地方行政のあり方にあるのではないかとだけ述べておく。

セルフヘルプ

自立ということばは「セルフヘルプ」の翻訳として使用されてきたように思う。つまり、自立とは自分自身の努力とか能力による、自分自身の問題を解決するための行為というような意味だ。

日本では近年、「自立支援」という言葉ができた。
「障害者自立促進」ならまだわかる。
「障害者支援」でもいい。
ところが、障害者自立支援となるとこれは難しい。
ちょっと意地悪く自立(セルフヘルプ)の本来の字義を解釈してみれば、「人助けが必要な人を、人助けされなくてもいいように、人助けする」となる。自立支援がややこしくて意味がわかりにくいことばであることがわかる。

この事は教育的な場面や治療的な場面においてはわからないでもない。教育現場では、療育によって自立の可能性を広げていく目的があるからだ。だが日本の福祉現場で大切にしてきた「ともに生きる」という観点からは、これらの考え方には違和感があることは否めない。

いかに優秀な教育者や治療者が現われ、新しい教育技術が開発されたとしても、障害そのものはなくならない。むしろ、教育・治療活動の成果があがれば上がるほど、障害とともによりよい生き方ができる社会のあり方を求めていく「ともに生きる」という考え方がなおいっそう重要になる。

これは日本人が古くから大切にしてきた博愛と公益の精神でもある。もちろん昔の福祉が今より優れていたというのでない。ましてや昔に戻れと言うのでもない。

私たちの社会は本来、わざわざ自立支援というようなややこしい概念を必要としないような懐の深い社会であった。少なくとも明治時代には私たちの社会は家族が力を合わせ、友がお互いを信じあい、ひとりひとりが進んで博愛と公益を広めていくことが美徳であり、そうした徳のある行動を教育の場面で育もうとしてきた社会であった。

福祉の制度が時代の要請に合わせて調整と擦り合わせを繰り返し、変化していくことは必要である。しかし同時に、変えてはいけないものもある。ひとりひとりの成員が、もてる力を発揮しあい、それぞれができる範囲で、障害がある人とともに歩んでいくことの大切さはこれからも決して変わることはない。

養楽荘の桜

3月29日日曜日、コロニー養楽荘にでかけました。名古屋市内より3度は温度が低いと言われているコロニー山の養楽荘の玄関の前に大木の桜が見事に満開となって、私を迎えてくれました。
「すごいなあ」を連発して思わず携帯電話で写真を撮ってしまいました。けれどみんなに見せることができません。入院中に娘が新しい携帯電話に変えてしまったので複雑な操作はできません。実に見事な桜をお見せできなくてごめんなさい。

長男が養楽荘に入れていただいてもう38年になります。毎年、毎年いろいろな思いを胸にいだきながら桜の花の推移をみながら、また、私たち親子の来し方に想いを重ね、感無量です。
この今年の桜の花を最後に私たち親子は地域の日進で住まうことになります。レジデンス日進の前の路にも桜の大木が6本もあり、小学校の入学式の日にはいつもハラハラと桜が吹雪いて着飾った親子を祝福します。
養楽荘の桜は何もいいませんが、私たち親子を長い間見守り続け、そして大変御世話になった職員さんたちを励まし続けてくれました。
養楽荘、ありがとう。職員さんほんとうに、ほんとうに、ほんとうにありがとう。

2009年4月7日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝

復帰しました

長い間、奈々枝日記を書けなくて申し訳ありませんでした。
2月1日に救急車によって病院に入院し、1ヶ月。退院しても自宅療養数日、養楽荘の保護者会に次年度ひきつぎのために出席したのが3月8日。今日は名東福祉会の合同家族会役員会に出席することができました。

病院で寝ているときは頭がおかしくなるのではないかと気が気ではありませんでしたが、今日、役員の皆さんの顔を見、ほがらかな笑い声を聞いて、心から安堵しました。
やっぱり私はみんなに取り囲まれ、今後どうする、こうすると言いながらも子どもたちや障害者の行く末を論じているのが一番幸せなんだと確信を持ちました。

年齢も高いし、持病の心臓の病気はなおる筈もありませんが、命ある限り皆さんと共にワイワイガヤガヤとやってゆきたいと存じます。今後ともどうぞよろしくお願いします。

2009年3月10日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝

福祉現場に生かせ、日本ものづくり思想

藤本隆宏氏は日本のもの造りが世界一であるのは、技にあるのではなく、その設計思想にあると主張した。設計思想はいわゆる「もの」にとどまらず、顧客にとっての付加価値をものに作りこみ、お客様を満足させる構想力や組織力であり、サービス業も含むという。組織に脈々と流れる「伝統」が日本のいい製品、いいサービス、いい仕事につながる。
なるほど、と思う。

昨今、福祉業界にも「キャリアパス」ということばが流行している。キャリアパスは個人の経歴のことだ。いろいろな福祉分野を渡り歩き、知識や技能を身につけ、キャリアを積み上げることによって福祉の技を磨き、自らを高める。そうしたキャリアを身につけた人が増えれば福祉サービスの質も増していくというというものだ。
その考え方は厚生労働省の「社会福祉法人の改革」でも持ち上げられたものだ。

だが、日本のものづくり思想からすれば、キャリアパスを求める風潮は、組織のサービス力を個人に還元してしまうもので、日本人がもっていたやさしさや慈しみの心、幸せになっていただくために身を尽くすという態度に水をかけることになるのではないか。

もちろん職員が資格をとる事を否定するものではないが、その前に組織としての「風土」を鍛え、質の高い福祉を目指す方がよほど日本の思想、ものづくり思想にあっている。

有資格者の配置に対する報酬の上積みなどの制度で資格取得に対するインセンティブをつけることは、キャリアパスを積み上げようとする風潮と結びつけば結局のところ組織をばらばらにしかねない。
組織がばらばらになれば、個々の組織が築いてきた福祉風土が弱くなりかねない。

福祉は組織力だと思う。協議会の仕事もそうした風土を地域ごとに強化、伝承していく作業に他ならない。
日本の伝統的なものづくり思想に立ち返り、障害者福祉を見直す時期が来ている。

保護帽

知的障害・身体障害がある兄の足腰の力が弱ってきた。もともと左半身に麻痺があり、単独歩行はかろうじてできる程度だったが、58歳になりだんだん体力も低下してきたのだろう。
そういえばこのところ、弟の自分も弱ってきたのでそれはそうだろうと思う。

愛知県コロニー養楽荘の担当の方からお電話をいただいた。たまたま会長(母)が急激な血圧低下があって愛知医大に緊急入院していたので、自分のところに電話がかかってきた。要件は、兄がよく転倒するようになったので防護帽を作りたいとのこと。母とは既に保護帽を作る方向で話は進んでいるから後は減免申請の手続きを代わりに願いたいということだった。
(より詳しく言えば、実際に購入する保護帽の1割ではなく、基準額の一割負担で済むということなので、実際にはもう少し負担額が大きくなる。)

自分はたまたま東京で処理しなければならない仕事が続いていた。そのために往復の費用がかかり、保護帽の制作費よりもはるかに高い交通費の支出が余儀なくされる。相手との時間の調整もあってなかなかたいへんであることを直感したので、たいへん不遜だとは思ったが、減免申請をしないということではだめなのかとお伺いした。とろこがそのように手続きが進んでいるので変更はできないということだった。

であれば担当の人にご迷惑を掛けてもいけない、早速名古屋に帰り、日進市の窓口へ行って減免申請をということになった。
ひとつの障害者用の補そう具をつくるにも、申請に担当施設職員、家族、申請を受け付ける役所、製作者が多大な労力をかけていて、実際には見えないコストがかかっているものだと痛感した次第だ。

しかし、この話、どこか腑に落ちないものがある。保護帽の1割負担の手続きは煩雑でみんなが頑張らなければならないという話に隠れてしまっているが、本当はもっと別のところに本質的な問題が潜んでいる。
それは利用者が保護帽が必要になることをできるだけ遅らせるようなケアについて検討することができないことだ。もちろんコロニーの問題というわけではない。私たち知的障害者施設全体の話だ。

転倒を防ぐことが目的ならば、杖の訓練は早期から考えられなかったのだろうか。いろんなタイプの杖があり、兄も使用できるものがあるかもしれない。

施設の設計や内装材の選択などで転倒しても簡単に怪我をしない施設を作ることができる。例えばレジデンス日進の場合、床材に桐を使用している。これは大変やわらかい木で傷が付きやすいという欠点がある反面、利用者の怪我を未然に防ぐことができる。もちろんマットなどと違い、やわらかすぎて歩行時にバランスを崩すこともなく、具合が良い。手足をできる限り使い、なおかつ失敗して転倒しても痛いが怪我をしない。

他にオムツの装着もお願いされた。兄は食事の後の移動に時間がかかり、トイレに着くまでに漏れてしまうことが多くなった。それでオムツの装着の話になった。これについては、オムツの装着を母が拒否したため、まだ装着にはいたっていない。近年、オムツの装着によって認知症が進むことがわかってきた。オムツをすることによってさらに介護度が高まってしまい、人的な資源が必要になってしまうというこもある。
保護帽について兄は特に問題はないと思うが、人によっては保護帽を被らない、引きちぎる、食べるというような不適応行動を誘発することもある。本人の障害から来るハンディを調整するために、様々な補そう具が考えられるが、その効果は総合的に見ないとわからないことが多い。

私たちの仕事は、限られた資源の中で知的障害者の人たちのQOLをできる限り高めることだ。QOLの向上のために支援計画は、支援者の人的な支援のコスト、施設の設備、毎日のデイリープログラム、補そう具、本人を支える家族の生活などを総合的に判断して選択・決定する必要がある。その意味では知的障害者のケアマネジメント相談者の要求水準は高齢者のそれと比較にならないほど高い。

ただ、この一連の話を知り得たら、生まれてはじめて保護帽を被った兄は何を思うのだろうか。
「帽子をかぶっとくわ」とたしなめられるような気がする。

派遣切りの問題も色あせて・・・

「派遣切り」の問題もそろそろ収束しつつある。あれだけ騒いだのに、マスコミは勝手なものだ。雇用全体の2.6%しかいない派遣社員の問題を改革論と結びつけて社会問題化することがもともとおかしい。レベルの低い単純化された議論の化けの皮がはがれてきたということか。

社会福祉施設における雇用の問題は人手不足。正社員として人材を求めれば募集が多くなるかというとそうはならない。一般雇用の3分の2に満たない給料しか払えない現実を改善することが先決だ。

有資格者に報酬加算の話が云々されているが社会福祉士の資格は基礎知識にすぎず、より高度な技術について国は評価しなければ安易な資格取得競争に陥るだけだ。そもそも、生活支援分野は多様な技能の組み合わせが必要で、机上の知識ではかる国家資格は優良な福祉サービスを提供するための尺度として妥当性がない。職員の報酬単価全体の底上げを望む。

社会福祉の現場は24時間体制。パート、日勤のみ、24時間交代制など、多様な勤務形態がある。それに伴い、多様な雇用形態を認めないと地域の人的資源が生かせない。当方人では優秀な専門職人材がパート人材だという事例もある。地域の多様な人的資源を有効に生かして初めて効率的で実りある福祉サービスが成り立つ。

名東福祉会はすでに正規・非正規を問わず、同一の評価基準と給与表に従った賃金体系に移行している。同一賃金・同一労働を目指し、正規・非正規の格差をなくし、最終的には全て正職員化することが目標だ。ただその際に、多様な雇用形態を認めることは維持する必要がある。多様な雇用形態は多様で豊かな社会福祉サービスを無理なく提供する上で必須の条件であるためだ。

もちろんがんばってもがんばらなくても同じ賃金ということではモラルハザードが起こる。がんばっている人に手厚い評価方法が必要なことはいうまでもない。

ただ、職員全員が納得できる体系をつくり、その体系にしたがって妥当な評価をすることは難しい。リアルな勤務体制に即して常に改善することが求められる。

忍是佛心

「お時間があったらお茶の会をしますから来てください。」
とレジデンス日進家族会のお母さん達からお誘いがありましたので、私は喜んで出席させていただきました。今日はお掃除の日だから各ユニットでゴトゴト音がしているなと思っていたら、自分の子どものユニットが終わったところから順次お茶会をやるそうです。

 お番茶とかコーヒーなどを持ち寄りのお菓子で頂くくらいに思って何気なく和室に入りましたところ、驚いてしまいました。床の間と見立てた壁に「忍是佛心」の掛け軸がかかり、山茶花が一輪みごとに生けてあります。赤い毛氈-実は木綿の布にお客様がずらりと並んでお抹茶を頂いています。

 私が座ると、珍しい「なす丸ごと砂糖漬け」の和菓子が出ました。やおら懐紙を取り出して小さなペテナスぐらいのなすを丸ごと頂戴いたしました。お菓子の由来をお聞きした上、ゆっくりと味わい、いよいよお抹茶です。無農薬で栽培された新茶、お手前も見事ならお茶のおいしかったことといったら!
「良いおふくでございます。」
とご挨拶をしたところ一同ワハハハと大笑いしました。とても満足でした。

その後、掛け軸を指して
「これは何と読むのでしょう」
と質問されたので、事のいきさつを説明させていただきました。

 忍是佛心-耐え忍ぶこと是、ほとけの心とでもいいましょうか。私は年に一度京都の観修寺と大石順教尼ゆかりの無心庵、可笑案、仏光院におじゃまいたします。今は全教尼が居られ、順教尼やそのほか諸々の心にしみるお話をお聞きいたします。

 大石順教尼はもと京都の芸妓でしたが、父親に両手を切り落とされ、何もできないと嘆き悲しんでいる時、カナリアを見てこんな小さな鳥でも歌い子どもを育てることができるのだと感じ入り、佛道に入って絵や書も口で書くようになりました。そのことを聞きつけて無心庵を訪ねてくる身体障害者のお世話もするようになり、無心庵、可笑庵、仏光院と建てて行かれました。

 ずっと全教先生が順教尼亡き後守ってこられましたが、このたび年齢も高くなり、故郷へお帰りになりました。私ももう行くことができるかどうかわかりませんが、でも頂いた数々の色紙や本の中で全教先生を偲び、順境先生のお徳を心としたいものです。京都山科に近く観修寺、仏光院、無心庵、可光庵とめぐるのも心が洗われるものです。

2009年1月22日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝

今の日本の繁栄を築いてくれたのは高齢者の方です。私は日本を築いてくださった先人達の努力にも感謝し、先祖の墓参りにも行きますし、近くの神社にも参ります。

ただ、私たちの国の高齢者が高齢者医療費制度の問題で「高齢者に死ねというのか!」とシュプレヒコールを上げるのを見て、これまでの先人は国を築くためにそのような行動をとったのだろうかと考え込んでしまいます。
先人達は自らを犠牲にしてこの国の若い命を護るために戦ったのではないか、そうした千年を超えるの歴史の中で今の日本があるのではないかと思うのです。

一方で、厳しい金融情勢の中で、会社の資金繰りのためにある銀行に融資の相談に行けば、わずか数分の間に数組の高齢者のご夫婦が一人1000万円の札束を持ち、列をなして新規の口座を開設している光景に出くわします。もちろんそれが虎の子の財産を護るためのペイオフ対策であることはわかりますが・・・。

国会議員の1票の格差は最大5倍。地方に若い人が少なくなり、都市に若い人が集中していき若い人の一票の重みは薄れていきます。反面、地方の若い人が政治の不公平を是正するために選挙で投票しようにも、どうしても高齢者が有利な選挙結果になります。

日本の安心と安全のために未来を変えるには、高齢者福祉や高齢者医療に偏った資源配分を若い人たちの安心と安全と未来のために使うことなのではないでしょうか。

そうしたダイナミックな改革を行うことにより、高齢者の生活もまた高齢者の知恵が生かせる、生き生きとした暮らしになるのではないかと思うのです。

新体系への移行が進まない

新体系への移行がなかなか進んでいない。
ここにきて障害者自立支援法のゆくへに対する関心が障害者関係施設にも政治の世界にもともに薄れてしまっていることがある。
見直しの時期も迫っているため、いまいちど問題点を整理して前に進むべきだ。

新体系へ移行していかない理由として、問題点が大きく分けて3つある。
第一に人材の確保の問題だ。報酬単価が低く、経営に汲々としている状況で人材が集まらないのは当然だ。報酬を改善しなければならない。
第二に新体系へのインセンティブ不足が揚げられる。旧体系の方が経営が安定しているのでは誰も急いで移行しようとはしない。
第三に「地域生活相談事業」の遅れがある。
そもそも新体系は地域生活を基盤とする障害福祉のグランドデザインをもとに設計された制度だ。
これを実現するためには最適な地域生活をコーディネートするための相談支援のしくみが不可欠だ。

人材確保についてはまず障害関係の職員の平均給与を上げなければ難しいだろう。
厚生労働省が平成20年度全国の5000箇所の障害関係の事業所の給与を調査した。その結果、職員の平均給与は3385000円だった。
これを全職種の平均に近づけていくことが必要だ。
同時に、正職員と非正規職員そのもの壁をなくすこと、
職員の能力評価に基づいた給与体系の開発すること
職員のキャリアパスを形成するための研修制度や技術開発
など経営者の努力も必要だ。
もちろんそうした努力に正しい評価やインセンティブを地方自治体が行うことも必要となる。

新体系へのインセンティブを強化しなければならない。なかでも報酬単価設定の低さは決定的だ。とはいえ、すべての報酬をスライド式に上げるのではなく、地域移行に向けてメリハリのある報酬アップが望まれる。なかでも
1 重度障害のケアに対する報酬
2 療育型児童デイサービスに対する報酬
3 ホームヘルプやケアホームなどの生活支援に対する報酬
の改善は必須だ。

日割り報酬に対する批判がわれわれ施設経営者からも強いが、これはかえって堅持すべきではないか。新体系への移行を進めるためには障害者自身が自由に必要なサービスを選択する概念が必須であり、それはとりもなおさず日割り報酬に結びつく。
合わせてケアホームなどのハードとしての住まいの確保について抜本的な対策が望まれる。

就労支援の促進のためには未曾有の不景気の対策も合わせて福祉施設の農業連携を進める政策も必要だ。
鹿児島県の白鳩会では農業法人を設立して地域ぐるみの雇用と障害者就労支援の両立を実現している。この活動にヒントがある。
愛知県でも安城の施設「ハルナ」がハウスにおける農業作業の請負を行うそうだ。今後の展開に注目したい。

相談事業の遅れは致命的だ。
地域における拠点を整備し、自立支援協議会を育てる政策が必要だ。そのためには自治体直営の協議会ではなく、中立的な民間活力を育てることが大切だ。相談支援の充実のために、自治体の役割は正しい実践に対して正しい監査と評価を行うことだ。

これまで多くの犠牲を払って進めてきた障害者自立支援。ここで後退してこれまでの努力が水泡に帰してしまう愚は避けなければならない。

天白ワークス家族会

おそまきながら明けましておめでとうございます。

天皇陛下からの御下賜金の報告をしてから年末年始は多忙でございました。

とりわけ私の長男が帰省でこの間、私の元へ帰っておりました。今年は私が数えで81歳、長男は59歳となります。体力的にも自分の齢(よわい)を痛切に感じ、年老いた息子の介護のあり方を早急に考えなければならないと思いました。

1月6日は久しぶりに天白家族会の新年会に出席させていただくことができ、何人かの懐かしいお母様方をはじめとして、元気なお母様方とお話をすることができました。それはそれは和やかな雰囲気でした。

中村署長のもろもろの報告から、よく天白ワークスの活動等が理解できましたし、そのあと山田本部長からケアホームの報告をはじめ、今後の方針等が説明されました。
お母様方はフンフンとうなづいたり、明るい顔で笑ったり、30年近い年月がたっても子を思う母の心は同じだなあと感じました。

初期の天白ワークスは大変な毎日が続いたことなどが懐かしく思い出されました。
当時、名古屋の養護学校を卒業した重症な自閉症の人たちが数多く一度に天白ワークスに通所されはじめました。これまでの常識では通用しない通所施設の過ごし方を考えなければなりませんでした。
私が天白ワークス所長だった時代には利用者について散歩に行ったこともありました。

みなさんに話をしていましたがやっぱりこれからのことも考えて頂かねばならず、老老介護の新しい方法を編み出したいものですね。
もっともっと話をしていたかったのですが、私の予定があり、部長や所長と一緒に早めに帰ってきてしまったことをお詫び申し上げます。

2009年1月10日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝

チャレンジ精神で乗り切ろう

2008年日本を襲った不景気の嵐に際して、私たち社会福祉現場の人間も変わっていく必要があると思います。
やはりここは「チャレンジ精神」が旺盛な社会福祉法人が新しい福祉の現場を発掘すべきだと。

2000年代に入って以来、社会福祉法人に欠如してきたのはチャレンジ精神だと思います。
昨年度愛知県の経営者会議の事務局をさせていただき、施設経営者はリスクと変化を嫌うことをつくづく感じました。
障害者自立支援法は数々の問題がありますが、その問題の解消策として改革の反動ともいえるような余計な制度が生まれていきます。そのために社会福祉がますます硬直化してしまいます。

現在、派遣社員の問題がクローズアップされていますが、社会福祉の場合には事情が異なります。社会福祉サービス、とりわけ障害者福祉サービスにおいてはそもそも雇用調整は必要ありません。
社会福祉現場では巷でいわれるような派遣切りや契約解除は起こらないのです。

問題は福祉施設の職員の中にある格差です。社会福祉法人分野の雇用の問題は正社員の特権化をやめて差別のない労働条件契約をつくっていくことでしょう。
24時間いつでもどこでも利用者のニーズに答えるためにはボランティア、パートタイマー、契約社員、正社員の垣根を払う事が必要だと思います。
もちろん絶対的な資金が不足しているのでそれを解消しなければなりませんが、その前に経営者の姿勢が問われているのだと思います。
硬直的な社会福祉法人の数を増やしても利用者は幸せになりませんし職員の待遇も改善されません。

景気対策にもなり、社会福祉対策にもなる案として有望なのはやはり住宅問題でしょう。
欧米に比べて狭い住居を大きな住居にするような政策を立ててほしいと思います。小規模共同住宅やSOHO住宅、多世代共同住宅を設置しやすい制度です。
福祉サービス機能を設置している住居には積極的にインセンティブをつけて良質で孤立しない住環境づくりを応援するのです。そうすれば障害者のケアホームの問題は自然に解決に向かいます。

明けましておめでとうございます

日本は不景気の時代に入り、しばらくの間は地方自治体の財政難から知的障害者福祉についても相当厳しい状況が続くといわれています。でも、裏返して考えれば、私たちのような消費生活中心の事業には有利に働きます。輸入エネルギーや資材の原価が大幅に下がって行き、それに伴い物価についても安定していくでしょう。

昨年、焼き菓子の店「ロト」ができました。とてもおいしいクッキーを作っています。今年はさらに充実した地域の活動が期待できそうです。

今年は新しいケアホームができます。なかなか感じのいいケアホームになります。
レジデンス日進で生活する人たちも入れ替わります。これまでと同様、既存の施設のイメージをどんどん打ち破って楽しい生活の場にしていけたらと願っています。
日中活動について、仕事と遊びの双方についていっそう充実したものにしていきたいと思います。
相談事業について、名古屋市の期待に応えられるようもう一段の工夫を凝らして行きたいと思います。
昨年、行動療育センターは大きな成果を上げました。今年は名古屋方面での展開の可能性について探って行きたいと思います。

名東福祉会は家族会と一体感があります。
この一体感は職員のがんばりと家族の協力があってこそ成り立つものです。

厳しい労働環境と待遇の中で名東福祉会の職員諸君はがんばってきました。
失敗しても臆せず改善しあい支えあう雰囲気、誰も見ていない場所でもゆったりじっくりと利用者に接していく心意気。
去っていった職員の背中を目で追いながら、目の前の利用者を見て自分は辞めることはできないと思いとどまり、介護を続ける勇気と使命観。そうした行動は私を含め、利用者の傍らで生活していない人の百のことば、千の主張に勝る価値があります。

願わくばこの厳しい社会情勢を100年に1度の<チャンス>と考え、職員諸君の心意気に応えることを今年の目標としたいと思います。

地域福祉を進めるためにはさらに改革を進めることが必要

2008年は改革が中途半端な状況でストップしてしまった年です。介護や障害者支援事業の改革を進め、新しい介護の市場をつくりここに人材が集まるようにしなければなりません。

ところが、社会福祉は前にも後ろにも進めない状況の中で停滞しています。そもそも社会福祉法人が行ってきた事業は今はNPOがあり、株式会社も参入できるようになっています。
多様な経営主体が参入し、それぞれの得意分野でサービスを競い合うことが社会福祉法人改革の目的でした。
現実には報酬単価の低下や補助金のカットが先行して実行され、新しい参入者が激減してしまいました。その上、株式会社が参入するから不正が起きるというニュアンスの報道があいつぎ、改革のイメージが故意に歪められたと思います。

改革の大きな要素として地域福祉があります。地域福祉を進めるに当たって、施設解体という誤った考え方ではない新しいパラダイムに基づく地域福祉の推進政策が必要です。

これからは地域の生活実態に合わせた地方行政ができるように、思い切って地方に任せる政策が必要だと思います。本来、人間の生活を単一のサービスでくくることはできません。都市と農村地や山間部、水産業の盛んなところでは生活様式も異なります。

地域福祉を進めるには地域に産業があり人が戻ってくる政策が必要です。
具体的には農業振興、水産業や山林業の振興などを行うことが必要です。
そうした生活の糧があって、地域の福祉サービスも生き生きとしたものに生まれ変わります。

地域の伝統を受け継ぐことは那(国)を誇りに思うことであり、
那(国)のために働くことは人のために働くことです。
人のためになることは生きがいを持てる豊かな人生を送ることであり、生きがいを持てる生活を応援することが福祉の本質です。

地域で株式会社、NPO、社会福祉法人がそれぞれの役割を地域の実情に合わせて協働できる環境の整備が望まれます。
そのためには、そうした多様な経営主体が参入できるビジネス環境が必須です。

現状では改革がストップしているために経営努力をしているとは思えないような法人も市場から退出していきません。
同時に株式会社やNPOの介護ビジネスは青息吐息で目の前にいる利用者のために、使命を忘れることなく懸命に介護を続けています。

人材不足も依然として深刻です。派遣労働者が8万5000人契約を打ち切られるということが話題になっていますが知的障害者の分野の応募状況は改善されていません。
やはり介護報酬や支援費報酬の少なさが問題です。魅力あるビジネスにするためには報酬単価を<抜本的に>見直していただきたいと思います。

「地域福祉を進めるためにはさらに改革を進めることが必要」
これが2008年の改革の揺れ戻し実験の結論だと思います。

天皇陛下から御下賜金を賜りました

12月23日の天皇誕生日に際して天皇陛下からメイトウ・ワークスに御下賜金がいただけることになりました。本日25日には名古屋市役所におきまして伝達式がありました。
伝達式には私と豊田所長とレジデンス日進の浅井所長も同行して局長室へ参りました。

何年かに一度、全部の福祉関係者から愛知県で1箇所だけ選ばれるので、めったにいただけない賞だとお聞きしこよなく名誉なことと恐縮の極みでございました。

もちろん、メイトウ・ワークスの職員はじめ家族会の皆さんが利用者の幸せを願って30年近く営々と築き上げてきた実績といえると思うのですが、よくやってくれた!!と感謝の気持ちでいっぱいです。

所長たちが
「メイトウ・ワークスが開所したころから施設を開放したり、地域の人たちと色々な行事をやってきましたが、当時はまだ他の施設があまりそういうことをしていませんでした。奈々枝所長が地域を大切にしましょうと口癖のように言われ、そうしたことをいろいろやってきたことを懐かしく思い出しました。」
と言っていました。

「こちらから住民の人たちにはこんにちはと言わなくてはいけないよ」とか
「何かあったらすぐに地域の人のところにお伺いしなさい」とか
メイトウ・ワークスのやきもの祭りを地域の皆さんにお礼の気持ちで続けたこと・・・
いろいろなことがことを積み重ねてきたことが今日につながっているのだと思いました。所長たちが「職員に伝えていかないといけませんね」と言ってくれたのはとても嬉しかったです。

まだまだやるべきこと、やり残していることは山のようにあります。利用者の人たちがしっかりと地域の中で暮していけるよう、そして親も元気で毎日を楽しく充実した気持ちで暮していけるようこれからもがんばらなければならないと決意を新たにしました。

2008年12月25日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝

寂光院のちりもみじ

12月2日、メイトウ・ワークスの家族会の皆さんに同行させていただいて、
犬山の寂光院、有楽荘などに行き、秋たけなわの風情を充分に楽しませていただきました。

寂光院は山のてっぺんにありますので、私は登って行けません。
下の駐車場で充分、美しい紅葉を見ることができましたし、織田有楽斎の茶室では素朴な中、高価な抹茶茶碗でお茶を味わうことができました。
お昼ごはんも美味しかったです。
繁雑な日常から遊離して、優雅な世界にひととき身をおくことは大切なことだと思います。

その優雅さについつられ、
昔、たびたび京都の大石順教尼の庵を尋ね、全教尼(順境尼の弟子)のお話をお聞きしながらお茶を頂き、心洗われる思いをしたことをメイトウ・ワークスのお母さん達に披露しました。

大石順境尼は芸子であったとき、父親に両腕を切り落とされました。
それでも父親を憎むことをしなかった。人を憎まず、自分を愛して生きてきたからこそ幸せであったとのことです。
その後、順教尼は仏の道に入り修行しながら尋ねて来る身体障害者の面倒をみながら仏に仕えられました。
京都の山科にある観修寺の中にある仏光院と可笑庵は順教尼のゆかりの庵です。

この頃は京都に行く機会もなく、心は少々くたびれてきましたが、
お母さん達と一緒にお茶をいただき、有楽苑の庭を散策して、ちりもみじを受けながら優雅なひと時を過ごすことができたことは、ありがたいことでした。

2008年12月13日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝

司法判断をしなければならない時代

知的障害者の犯罪が起こりました。マスコミの注目度はやはり高いものがあります。

裁判員制度が始まります。すでに裁判員候補通知が送付されています。
日本の裁判員制度は世界でも特異な制度であるらしく、
1 量刑として死刑を含むこと
2 事実認定と量刑を含む制度
3 職業裁判員と選挙人名簿から無作為で選ばれる裁判員が司法判断を行う
など、いろいろな点で世界の制度とは異なっているそうです。

殺人事件ともなると非常に長い時間の審理が必要となります。
素人にもわかりやすく説明せねばならず、時間がさらにかかりそうです。
時間の長期化を避けるため、これまで職業裁判員が行っていた審理とは違い、いいかげんな審理にならないか心配です。
重大な事件になれば報道が裁判員の判断に大きく影響しそうです。裁判員の判断がこうした報道から自由でいられるか疑問です。

一般の人たちがこうした重大事件の審理に長く参加することに耐えられるかもありますが、
素人の私たちが今回のような知的障害者が犯した犯罪について、死刑という判断をすることの重みに耐えられるのかについても疑問があります。

人が人を裁きその結果に人の命がかかわる・・・これは重大な判断です。やはり職業裁判官だからこそ正しい判断ができるというものです。

裁判員が死刑の重圧を避けるため、どんな犯罪を犯したとしてもこうした被告に対して無罪という判決が増え、結果として知的障害者や精神障害者に対する不当な差別が増えてしまうのか、
あるいは、西洋の「魔女狩り」を連想させるような、とてつもなく暗い時代に入ってしまうのか。

誰かこの制度をとめてくれる政治家はいないのかと思います。

新たなビジネスモデルの構築を

この1年、世界は不景気の時代に入り、しばらくの間は地方自治体の財政難から知的障害者福祉についても危機的な状況が続くと思われます。
名東福祉会はこうした厳しい時代の中にあっても、利用者の満足の探求を続けていかなければなりません。

現在の障害者福祉は横並び、官主導で運営されていて、まさに「古いビジネスモデル」で経営が行われてきています。
こうした体制のもとで緊縮的な財政政策がとられると、それにつれて、最も末端の下請け作業を行っている授産施設などの障害者福祉サービスもジリジリと衰退してしまう傾向があります。
障害者雇用や就労支援などのしくみが崩壊してしまわないよう行政によるなんらかの手当てが必要であることはいうまでもありません。

その一方で、私たち社会福祉法人の経営についても、自ら変革していくことが必要です。
社会福祉法人が長期的に安定して利用者の満足を追求し、新たに地域のニーズを掘り起こして地域に根ざした組織として定着していくためには、
私たちが社会福祉法人の中核的な競争力、すなわちコア・コンピタンスを持てるように変わって行くことができるかどうかにかかっているといっても過言ではありません。

世界的な不況により、今後も数年間は国内の産業構造が大きく変貌していくことが予想されます。
企業は生き残りを掛け、雇用の調整など様々な分野で流動化が起こり、それにあわせて新しい競争力をもったサービスが創出されることが考えられます。
これらの中には、従来福祉的な分野に限定されて提供されてきたようなビジネスモデルも出てくることが予想されます。

いわゆる企業内に設けられる障害者就労支援センター、
高齢者ホームと障害者ホームの複合モデル、
障害者多数雇用農業法人モデル、
企業内保育所、
企業連合的なNPO組織が経営する障害児療育センター、
企業や自治体を顧客とした障害者多数雇用事業所、
など、新しい福祉モデルがその芽を吹き出しつつあります。これまでは実験的な試みであったものが、確固たるビジネスモデルとして福祉分野に進出してくるはずです。

また、そうしたビジネスを支える基礎技術の分野の進展も見逃せません。
介護ロボット産業の進化、
通信技術の進化と遠隔地の生活支援技術、
電気製品のインテリジェント化とネットワーク化による見守りシステム、
福祉事業・医療関連ソフトウェアの進化、
都市における自動車利用のしくみ
福祉ケア付きマンション
行動科学の進展
など、新しい福祉ビジネスモデルの創出を支える産業技術も育ちつつあります。

人の流動化、社会資源、基礎技術の進展により、これまで考えられなかったような新しい福祉ビジネスモデルが生まれて来るのではないかと予想しています。
肝心なのは世界的な経済の変動に連動して流動化した雇用を吸収しつつ、行き場を失った資金を集めて福祉ビジネスの進化が始まるのではないかと思われる点です。

私たち障害者福祉分野の人間は、この数年の間、障害者自立支援法ショックに翻弄されてきました。
新しい福祉ビジネスモデル創出へのムーブメントについては、障害者福祉分野では工賃倍増計画がいくつかの福祉大会で提案された程度で、ほとんど意識もされていないのが現実です。

私たち社会福祉法人は旧来からの古い福祉モデルにしがみついているわけにはいきません。すなわち横並び主義・要求行動至上主義・天の声待ちの体制から、
新技術に積極的に関心を持ち、
地域ニーズと利用者満足の追求のために、新たな展開を求めていくことが必要であると思います。

一時の現象でしかない規制強化への揺れ戻し施策や、福祉予算への一時的財政出動に気を緩めることなく、今後10年のスパンで社会福祉法人の改革を継続していくことが必要です。
厳しさが増す今こそ、新しい時代に向け、社会福祉法人の持てる力を結集していくことが必要なのではないでしょうか。

ノーマライゼーションは障害者を不幸にしていないか

近年、ノーマライゼーションや権利擁護についてこれまでとは全く異なった角度から批判が強くなってきているように思います。

特にインターネットの世界では一般の人たちからのノーマライゼーション批判が強くなってきています。なかには目に余るような汚い言葉使いで知的障害者をののしったり、不当な恐怖を煽るような書き込みが増えています。

ノーマライゼーションの考え方は障害者団体の「錦の御旗」でした。もちろん名東福祉会もこの理念を掲げて30年が経過しています。

ここで確認しておかなければならないことは、ノーマライゼーションは福祉サービスを低下させたり縮小したりすることではないということです。入所施設を解体することがノーマライゼーションであるかのように喧伝する人がいますがこれは誤りです。

本来のノーマライゼーションは、障害がある人に必要なケアを提供し、必要なサービスを自由に選択することができるようにすることです。知的障害がある人の教育や支援は、幼児期や学齢期に最適な方法であたれば、その後の人生のすべての問題が解決するわけではありません。むしろ、適応行動はまわりの人たちの継続的な働きかけによって改善されますが、不適切なかかわりかたで不適応行動も増えていくのが行動の原則です。支援や教育をなくすことが自立支援ではなく、適切に継続していくことが自立支援であり、継続的自立支援の行き着く先がノーマライゼーションなのです。

最近、知的障害がある男の殺人事件が報道されました。関係した方々の失意を思うと胸が痛むばかりです。

こうした事件が起こるたびに、知的障害のある人たちにサービスを提供しているものとしては、地域ケアのしくみが圧倒的に不足していることを感じます。名東区生活支援センターのリポートにもあるように、知的障害者が主体的に地域で生活し、明るく健やかに人生を送るためには、選択できる福祉サービスが不足しているのです。

地域福祉時代といいながら、一対一の母子関係に強く依存した閉じた生活を強いられる状況に追い込まれている事例が多いのです。行政の担当者や専門家は、セルフアドボカシー(自己権利擁護)というような難解な言葉を導入して、何もしない、何もできない状況を是とすることはあってはならないことです。

一方、現在の法曹界に広がる権利擁護運動についても首を傾げたくなるような事例もないわけではありません。障害者だから責任がないということについてもそれが果たして権利擁護といえるのかについても考えていかなければならないと思います。たとえ知的障害があっても同じ人間として<罰を受ける義務や権利>もあるのではないか、それが本来のノーマライゼーションではないかと思う事犯も多くあります。

私たちのように障害者福祉を実践する団体も、そろそろノーマライゼーションという言葉について考えなければならない時期に来ているのではないでしょうか。