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虐待防止法
施設事業者としては言いたい事がやまほどある虐待防止法です。でも、どうせこうした法律が制定されるなら、これを契機に利用者のために知恵を出し合う事が最善と思います。
虐待はどうして生まれるのかを現場で考えましょう。相手が思うように動いてくれないから始まって、ルールに従わない、支援者に反抗する、さらに危険な行動を続けるといった事がきっかけとなります。
「支援者の虐待」というおぞましい言葉を当てはめざるを得ない状況まで支援者と利用者の関係がこじれてしまう前に、現場で知恵を出し合って、原因を探ります。各現場でナゼを繰り返し原因を突き止めましょう。
なぜ支援者は強引に利用者を止めようとしたのか?
→それは利用者の方が道路に飛び出そうとしたから
ではなぜ道路に飛び出すのか?
→それは、散歩に行くために入口が空いていたから
ではなぜ散歩にみんなが出かける前になぜ支援員が側にいなかったのか?
→散歩の準備と連絡をするために支援員が離れる必要があったから
ではなぜ準備と連絡に離れる必要があるのか?
・・・
といろいろと徹底的に原因を遡ったり、具体的な支援の動作を細かいステップに分析したり・・・。
私たち名東福祉会は相談についても行動療育もそれなりの技術を持っていると思います。課題はそれを法人全体で共有していない事なのです。
支援員個人の資質にしない事が大切でしょう。何事も利用者のためにを合言葉に支援内容を改善していく事が、施設における虐待撲滅の近道なんだと思います。
選択という道具
知的障害者の施設で選択を重要視するのは
・現代では選択は自由と民主主義の本質と考えられている
・従って、権利を擁護するためには選択可能性は必須ではないか
と考えてきたからです。しかし、選択には様々な欠陥があります。いいかえれば、選択してもらったからといって権利が保障されているわけではないということです。
その理由としては
・選択セットの中にろくなものがないかもしれない
・好んでした選択を繰り返した結果、長期的には本人にメリットがもたらされないかもしれない
ということがあるからです。従って、選択を提示するにしても、
・長期的な選択(少なくとも数年間)の提示
・中期な選択(数日から数週間)の提示
・短期的な選択(数時間)の提示
のすべてのレベルで確認が必要となります。そして確認の際には、「選択肢の中にいいものがありません」という選択も認められていないといけません。せめてこれくらいは、選択のときにやっておかなければなりません。
もちろん、短期的な選択しかしていない福祉サービスにとっては上記の事に気づき、改善する事はある程度意味があります。
しかし、ほんとうのことをいうと、日常の場面で、どっちを選ぶのかはどうでもよくて、「僕はあなたを選んでいるのだから、あなたが決めてください」ということが多いのではないのでしょうか。
福祉サービスの提供者だけではなく、教育者、医者、警察官、役人、議員、消防士、自衛官、海上保安官も実は、<今目の前で助けを求めている人>にどのような手助けをすべきなのか選択をゆだねれられています。実は、選択の設定を含めて選択の本質的な責任は選択の提示側にあります。極限の場面では、選択をゆだねた人間に従うしかないのです。知的障害者の福祉施設では、このことを意識する必要があるように思います。
どんな教育内容にするのか、どんな支援内容にするのかを決めるのは教育者や支援者だという意識と責任感がなければ、いい支援や教育ができるはずがありません。
私は選択という道具は必要ないというのではありません。むしろ、生活では常に選択を求められます。そのとき多様なレベルで「選択をゆだねられた人間」が生じます。特に、共同生活では。
選択をゆだねられた人は、遠くの目標を定めて、近くの道標を確認し、それに向かうためのよい方法を提示し、その意図や結果を本人に確認するしかありません。他者に道を選ぶ事をゆだねられた人はそれはもう身を引き締めて道を選ぶしかないのです。その意味では細かく政策を決めてから<契約選挙>を行うマニフェスト選挙も本当は間違いです。本当は、自分が任せても大丈夫だと思う人に政策づくりをゆだねて後は責任を持ってやってもらうしかないのだと思います(おっと、脱線!)。
選択を提示する側も、提示される側も完全ではないことは承知の上です。そこをなんとかやっていかなければならないのでしょうね。それが現実の生活です。私は、選択はそのようなものだと思います。
権利擁護はわかりにくい言葉
権利擁護(アドボケート)の語源を調べてみたら、
ad(=to) + vocare(=call) + ate(=person)ということで、早い話が「人の助けを呼ぶ人」だそうです。転じて弁護士の意味になっていったようです。
ということは、「生活上でお困りごとがあったらそれにお答えすること」が権利擁護のそもそもの意味になります。
権利擁護をもっと過激にした言葉に「自己権利擁護」というのがあります。
これも本来の意味からすれば「困った時に相談者を呼んでみる」というくらいの意味です。障害者生活支援センターは四六時中呼び出しがあってそれに応えているから、本質的な自己権利擁護の仕事をしているということになります。
もっとも、家政婦のミタさんのように、依頼されたら殺人や放火でもするというのは困りますが。
日本にはもともと絆(きずな)とか、縁(えにし)とか、結まある(ゆいまある)(沖縄ですが)とかあります。無味乾燥で分かりにくいアドボカシーよりも、深くて強くてしなやかで優れた言葉だと思います。
絆
最近は、古くなったアパートを現代のニーズに合わせて再生させるリノベーションが流行っているそうです。リノベーションとは古くなった建物を間取り等を大幅に改築してそれまでの価値以上の物を新しく生み出すように再生させる事。
出張中に、東京のある木造アパートは共同キッチンと共同リビングがあるリノベーションで生まれ変わったという番組を見ました。
住民たちは楽しそうで、そのアパートに帰って住人と何かいっしょに食べたり飲んだりしながら今日あった事などを話しています。疑似家族のようです。ちょっとメゾン一刻がめちゃくちゃおしゃれになったような不思議な空間でした。
日本漢字能力検定協会が発表した2011年を表す漢字は「絆」でした。今年もますます「絆」をコンセプトとしたサービスが優位に立つでしょう。
知的障害者の福祉の世界においては本来、「絆」は専売特許といっていいくらい大切な、大切な言葉だと思います。絆とは人と人を離れがたくしているものです。私たちの仕事は「障害者自立支援」ですが、自立とは集団の中で浮遊しているような孤立ではなく、<必要なときに必要な人とかかわる力を自ら持てるようにする支援>だと思います。言い換えれば、本人にとって有意義な「絆」をつくるための支援なのかもしれません。
絆を感じることができる時間づくり、空間づくり、人づくり、仕事づくり、街づくりを通して、地域の中に「絆」を張り巡らすことができればいいと思います。もっとも、絆でがんじがらめになって身動きが取れなくならないようにもしなければね。プロならば。
今、増税ですか・・・
GDPっておおざっぱにいえば日本国内で消費されたお金の総額です。確かに、GDPの社会保障に占める割合は大きくなっています。反面、日本のGDPの伸びは停滞しています。
ただ、名東福祉会のような障害者福祉団体の活動では、往々にしてこのGDPに反映されられないような「経済活動」をしています。
例えば、施設のボランティア活動は施設職員と変わらない活動をする事がありますが、無償であるためGDPには加算されません。
物を購入して使うのではなく、誰かのものを共同で使ったりする事もGDPには反映されません。上ノ山の畑で採れたものを給食で使用すると、もちろんGDPには反映されません。
利用者の日中活動で、「ご近所の役に立つ」ために、畑で採れた花をリサイクルの植木鉢に植え、それを無償でご近所にお配りしても工賃は稼げません。でも、「お礼」として地域の夏祭りにご招待されたり、地元出身の野球選手が来てサイン会が行われたり、ギター演奏やバイオリンの演奏会があったりするかもしれません。お金は動きませんからこれらの活動は本質的にGDPには無関係です。無関係ですが、お金を稼いで使う以上の喜びは感じる事ができると思います。
社会福祉の活動にはお金がかかります。しかし、工夫次第でお金がかけずに生活の質を向上することも可能だと思います。経済指標では計り知れないのが福祉活動です。
増税をして、社会保障にあてるというのは、何か、社会保障が増税のいいわけのネタにされているようで嫌な感じがします。
それよりも、施設建設の規制を撤廃するとか、提出書類を減らして実質的に利用者が満足するための時間をとりやすくするとか、子どもたちが福祉施設での活動体験を増やすようにするとか、障害者が企業で働きやすくするとか、気の合った仲間どうしでも施設を運営できるようにするとか、もっと社会福祉施設の活動がやりやすいような環境を整えることに力を入れてくれればいいのにと思います。GDPや消費税とは無関係ですから。