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施設利用者の高齢化が進んでいる
私ごとで恐縮ですが、私の兄は今年で62才となります。後数年で正真正銘の介護保険の被保険者となります。もともと左半身に麻痺がありましたが、最近では車椅子での生活になりました。レジデンス日進では定期的にリハビリに通院してくれています。しかしもともと医療施設ではありませんから、通院等、職員の負担も大きいと思います。最近では足に腫瘍も見つかっています。今年で名東福祉会は30周年を迎えます。同じような境遇にある人がいて、利用者の高齢化問題はこの先ますます深刻になってくる事が予想されます。10年後は現在の兄と同じようなニーズを抱えた施設利用者が増えてくる事でしょう。また親の高齢化は利用者の高齢化以上に進んでいますから、高齢知的障害者対策は喫緊の課題でもあります。
しかし、肝心の高齢知的障害者のケアのあるべき姿についてはその方向性さえ明らかではありません。
(1)現状の障害者福祉制度の枠内にとどまり、制度や施設を高齢知的障害者に使いやすく改定していくべきなのか
(2)高齢知的障害者専用のホームをつくって対応すべきなのか
(3)既存の高齢者介護制度を利用すべきなのか
いろいろな選択肢が考えられます。それぞれに費用や生活のありようと介護方法をめぐって長所と短所があると思います。
既存の高齢者の介護福祉サービスを受けるようにするならば、
・身体介護の状況と介護保険の要介護認定調査
・資金的援助や介護に関する兄弟の支援の状況
・生活保護と絡んだ収入や財産の状況
・成年後見人の意見
など、非常に個人的な情報を含めた研究が必要となります。悪い事に、知的障害者福祉の世界では、福祉サービスの提供者側はこうした「個人情報」が全くわからない状況にあり、専門性が育っていません。名東福祉会は過去何度も高齢者福祉に進出を行政に打診した事がありますがいずれも拒否されています。名東福祉会は母体が医療機関ではありませんから、経営基盤やニーズの点で無理があったのも確かです。
障害者自立支援法(平成17年)は一部施行、利用者負担無料化、障害者自立支援法改正案(平成22年)を経てこれまで度々ごたごたしてきました。そして現在は「税と社会保障の一体改革」でいったい何を改革しているのかわかりませんが、ますます混迷の度を極めています。このままでは失われた障害者福祉の10年や20年になりかねません。こうした時は必ず訪れる「高齢知的障害問題」のために腹を割って話し合える場を自分たちでつくるしかないのではないかと思います。
実現要因の改善
行動のモデルには様々なものがありますが、L.W.グリーンのPPモデルでは行動に影響を与える要因として次の三つにまとめて考えています。
(1)前提要因
行動に先立つ要因。その行動の倫理的根拠とか動機。例えば知識、態度、信念、価値観、ニーズ、能力などをひっくるめたもの
(2)実現要因
行動の実行を起こりやすくする環境の要因。各種の社会資源や地域の資源の利便性、近づきやすさ、料金の安さなど
(3)強化要因
ある行動が起こった後に、その行動を増加させる正のフィードバックを与える要因すべて
このモデルは、今では先進国のほとんどの保健政策で採用されているモデルとなっています。日本の厚生労働省も例外ではなく、「健康日本21」のモデルの下敷きになった考え方です。このモデルは社会学習理論がベースにありますから、保健衛生政策を立案する上で親和性が高い事が普及に結びついたのだと思います。それだけに、私たちのような障害福祉政策においても使いやすいモデルとなっていると思います。それで、名東福祉会の基本理念でもこのモデルを若干修正し、採用したモデルを事業報告書でも掲載しています。
福祉政策において(1)の前提要因の改善策を実践することはもちろん重要です。ですが、(2)のように、障害がある人が望んだ行動を実現しやすくなるように、地域社会の環境をつくりこんでいく政策を実践する事も重要です。1980年代から2000年にかけてのノーマライゼーション運動は、社会学習理論の立場からいいかえれば、前提要因を改善するための訓練や治療的アプローチを重視する政策から、実現要因に対する働きかけ、すなわち社会へのアプローチに重心を移そうという運動でもありました。このブログでもたびたび話題になる「地域の協働性」ですが、本質的には、本人が望む行動が実現しやすいように、地域の生活環境を改善していく運動に他なりません。
前提要因、実現要因、強化要因はそれぞれ独立しているのではなく、相互に連関し合っています。例えば実現要因の改善によって望ましい行動が生まれ、それに対して支援者の強化要因も改善され、さらに成功体験が本人やまわりの人の知識を深めて態度や信念を変えていきます。であれば、社会福祉施設の支援員は、内にとどまらず、外へ外へと行動を広げていくことが重要であると考えられます。これは表現するといいかえることができるかもしれません。
表現という活動には絵画、踊り、歌、陶芸作品などの芸術に属すものから、パンやクッキーなどの製品や下請け作業など幅広い活動を含みます。これらは本人の内側にとどまらず、外に向かって社会的な行動となり得るものであり、表現という言葉が当てはまるからです。表現は、正に「プロセス」そのものが実現要因に影響を与えます。メイトウ・ワークス30年以上前から実践されてきた陶芸作業も、障害がある人の力を社会が再認識するのに十分な活動でした。陶芸製品に多くの人が関わりを持ち、そのかかわりが地域の協働性を深めて行ったことは何人も否定できません。
表現の過程を大切にする
「結果がすべてである」というのは、結果責任の軽視の風潮に釘をさす警告の意味合いがあるからです。特に、政治家が結果責任を問われて「プロセスが大切」なんて言うのは、責任逃れのようであり得ませんよね。
でも、よくよく考えてみれば、「結果」と「過程」は明確に区別できるものではありません。得られた「結果」が新たな「目標」を生み、目標を実現する次の「過程」に繋がっていくからです。特に障害福祉は連綿と続く過程の中に諸活動がありますからなおさらです。
名東福祉会では陶芸やたいこ、ダンスに歌など、いろいろな「表現」の機会があります。もちろん名東福祉会だけではなく、多くの知的障害施設では「表現活動」を大切にしています。
ある事を「表現」しようと思ったら、日々、多様な過程を経ます。例えば小さな陶芸製品の注文を受けて、それを作ろうという仕事をするときにも、土屋さん、釉薬屋さんなどと打ち合わせが必要になります。納品のための箱も作らなければなりません。場合によっては陶芸のプロの話も聞きます。陶芸製品のデザインは指導員だけではできません。利用者の人が得意とする表現をその製品に反映させてこそ利用者の製品となります。ひとつの陶芸製品を「表現」するためにも莫大な人が関わります。そのプロセスが社会とのつながりであり、「表現」になります。祭りをやれば、発し手と受け手の間で多様な表現が生まれます。
伝統的に「表現の活動」が福祉施設で重視されているのは、「表現活動」がよい効果、よい結果を生むからでしょう。障害は、社会との関係で生まれる側面があります。表現の過程を社会と共有し、お互いに楽しむ事によって、社会も影響を受け、ひいては障害の性質そのものが変化していきます。
新しい制度がスタートしましたが、伝統的な表現過程は、生活介護施設の活動の中でも重要な地位を占めていくと思います。
障害福祉予算が足りない
これまで障害福祉予算は橋元内閣、小泉内閣の構造改革路線でさんざんな目にあってきています。ですが障害福祉予算に正当なお金を投ずることは無駄ではありません。かえって、この分野の投資を行うことは、大震災で傷ついた日本の経済を再生させるだけではなく、強靭でしなやかな国をつくることに繋がるからです。
障害者福祉への予算配分は財政破たんの原因になるという風潮があります。しかしそれは偏った見方であって事実ではありません。そもそも障害福祉サービス関連消費はGDPに含まれます。私は経済については専門ではありませんが、自分の職業である情報産業の仕事を通じて、この分野の投資不足が日本の遅れにつながっていると感じている一人ではあります。障害福祉サービスは直接的なサービス費用の他にも、様々な関連産業があります。
・障害があっても往来が安心してできる使いやすい建築物の建設
・障害がある人にもアクセスしやすい情報技術の開発
・誰でも簡単に利用でき、全国どこにでも移動できる交通機関
・ロボット技術を生かした障害支援
・個々のニーズに沿ったオーダーメイド医療
・障害者の社会参加を促す教育技術
いろいろ考えられます。日本が誇る技術を障害福祉分野に生かす機会はいくらでもあります。これは障害者に限定した投資ではなく、東日本大震災の発生をきっかけとしてこれから来ると思われる大災害への備えでもあるのです。
しかるに、障害関係に割り振る日本の予算は極めて貧弱です。厚生労働省自身、わが国の障害者関連予算が極めて少ないと認めています。長くなりますが、引用してみましょう。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/sougoufukusi/2011/08/dl/0830-1a01_02_04.pdf
(引用開始)
財政についての基本的な視点
【結論】
○ 障害関連の財政規模については、OECD 加盟国の平均値並みの水準を確保すること。
○ 財政における地域間格差の是正を図り、その調整の仕組みを設けること。
○ 財政設計にあたっては、一般施策での予算化を追求すること。
○ 障害者施策の推進と経済効果等の関連を客観的に推し量ること。
【説明】
積算作業の前提として、また制定後の障害者総合福祉法がより実質的で効力のある法律となるために、財政面でとくに留意すべき4つの視点がある。
1.障害関連の財政規模については、OECD 加盟国の平均値並みの水準を確保すること。
障害者福祉の予算水準のあり方を考える上で、参考になるのが OECD 諸国との比較である。地域生活をささえる支援サービスの予算規模(障害者に対する現物給付。ほぼ障害者自立支援法によるサービス費用に相当)について、OECD 諸国の対 GDP 比平均を計算したところ、0.392%(小数点第4位を四捨五入)であった(OECD SOCX2010。2007 年データ。34 カ国のうち、データなしのアメリカ・カナダを除く 32 カ国を集計)。
ところが、日本は 0.198%(1兆 1138 億円に相当)であり、OECD 諸国のなかで第 18 位であった。これを平均値並み(GDP の 0.392%)に引きあげるには、GDP 比0.193%(約 1 兆 857 億円)の増額が必要であり、総計で現在の約 2 倍に当たる2兆 2051 億円となる。また 10 位(0.520%)以内では約 2.6 倍に当たる2兆 9251 億円となる。(2007 年の日本の GDP 総額は 562兆 5200 億円)。
以上のデータから見ても、日本の障害者福祉予算の水準は、OECD 諸国に比して極めて低水準であり、少なくともこれを OECD 加盟国の平均値並みの水準に引き上げることが求められるが、その際、支出・給付面と国民負担率などの負担面を合わせて総合的に検討を行うべきである。
(引用止め)
私たちの国の障害者福祉予算は非常に小さいのですね。
2011年は、私たちの国のGDPは468兆円(名目)にまで下がってしまいました。失われた20年がなくて、他国並みに20年間成長を続けていたら今頃は1000兆くらいのGDPにはなっているといわれています。なにしろ、あのEU諸国でさえ成長しているのですから。もしGDPが1000兆で、OECD諸国の平均並みの0.392%の障害福祉予算が組まれていたとすると3.9兆円の予算になります。これは現在の3.6倍もの予算になります。今の3倍予算があったら!障害がある人の収入もさぞかし増えていることでしょう。
現在、消費税の議論が行われています。しかし、こうした将来への備えを優先する議論を一切せずに消費税だけを上げるのは間違いだと思います。正しい成長戦略と先を見越した障害福祉政策があれば、消費税増税は必要ないと思います。
ちょっと今日は独り言です。
障害者福祉でもっとも必要なのは、利用者と支援者の生きた往来を明確化して反復・修正していく技術だと思います。
福祉の世界は原理・原則の議論が大好きです。
例えば本人主体、選択の自由、権利擁護、自己権利擁護、虐待防止、透明性、説明責任、ノーマライゼーション、福祉理念・・・
数え切れない「理屈」あるいは「理」に関する言葉が並びますが、ひとつひとつの言葉はその定義すら定まりません。
人は一般に、原理原則の議論が大好きです。まるでこの世は「理」によって支配されているかのようです。
しかし原理主義は厳格主義につながり、例外を認めない硬い福祉になる恐れがあります。
「理」に対して「気」という言葉があります。
空気、雰囲気、人気、元気、活気、気分、意気、殺気、語気、やる気・・・
施設を訪問して利用者の人たちの記録を読めば、「気」がつく言葉が多く目に付くはずです。福祉の世界では「気」も重要な言葉として私たちの仕事を支配しています。
特に「空気」という言葉は問題があります。ひところ「空気が読めない<KY>」という言葉が流行りました。この言葉によってどれだけ福祉施設の多様な試みがつぶされて来たでしょう。
私たち知的障害者福祉にかかわるものは、「理屈」でもないし、「空気」でもないところで動くしかないのではないかと思います。
私たちはお互いに影響しあう「文脈」の中で生きています。一連の行動や環境の流れといったらいいのでしょうか。
私が行動療育について学んだことで、最も重要であると感じることは、子供と療育者の相互の行動の文脈の中にこそ療育の本質があるという事です。
これがよい支援であるのか、望ましくない支援であるのかは、やってみるまで、あらかじめ誰も決めることができません。
その価値は、支援を必要としている行動の筋道や背景(文脈)をみなければわかりません。本人とまわりの人たちの試行錯誤の結果としてその価値が決まるのです。
モニタリング(評価)という手法があります。評価というとちょっと意味が狭くなります。私は、特定の福祉的対応を行うことによって新たにどんな課題が必要になったのか、新しい「道」を見つける作業のことと考えています。
私は、提供する福祉の価値を左右し、自分たちをより向上させるものは自分たちの行動と利用者の行動をモニタリングすることにあると思います。それは自分たちがまさにそこに生きて動いているその「往来」を見つめることと言い換えてもいいかも知れません。人の往来を見つめ続け、実際にその往来に立って歩くことで人は支援技術を磨いていけるのだと思います。