ブログ

サイト管理人のブログです。

ブログ一覧

アメリカのプラグマティズム

最近、日経や正論等の言論誌でプラグマティズム(実用主義)という言葉を目にするようになりました。

この言葉はあまり気にもとめず気軽に使ってきましたが、ほんとうのところはどうなのかと思いアメリカの歴史的な背景から調べてみる事にしました。

それで、アメリカの建国の思想を自分なりにまとめると
1国は個人を幸せにするために存在している
2多民族が集まってできた国なのでひとつの価値観を押し付けられてもうまくいくはずがない
3個人が幸せかどうかは、理論ではなく実際に諸問題を解決した実践の結果で判断する
というところに行きつくのではないでかと思います。

アメリカはイギリスの植民地でしたから砂糖税とか茶税とか全てのパンフレットなどに貼らなければならない印紙とかで随分苦しめられました。その苦しい経験から国家の役割は個人を幸せな生活に導く事であると強く意識したといいます。

アメリカには黒人奴隷、南米からのヒスパニック、アジア系移民、ユダヤ人、イギリス人などいろんな人たちが存在していて、その上、トウモロコシで命を助けてもらったのにもかかわらず迫害をしてしまったインディアンの人たちもいます。それらの人たちは決して混合することなくそれぞれの宗教を持った多民族国家を形成しています。

それゆえ国として超越的な道徳や理念を与えられて実践するような事は不可能で、具体的な解決策は地域共同体のなかでいい結果を生みだす実用的な結論を模索するしかなかったといえます。そもそもイギリスから脱出してきた人たちは宗教的な迫害から逃れてきた人たちですし。

もともとの地域福祉の出発であった欧州のノーマライゼーションは「脱施設」ですが日本では「脱施設」というよりはアメリカのプラグマティズムの影響を強く受けていると考えられます。つまり
1個人の幸せを実践する方法に焦点を当てて考える(できる事探し)
2地域の福祉実践のキーマンが集まって解決策を模索する
3結果がでなければ方法を変える
ということで、前記のアメリカの建国の思想とよく符合します。

ところが、理論や難しい戒律ではなく、実際に幸せにつながる行動を郷土の人間が協力し合って実践しようという事に限っていうならば、日本では2000年も前から、もっといえば縄文時代からそうしてきたのではないかと、そんな風にかえって日本の福祉思想を見直すべきだと思えもします。

アメリカの思想を勉強すると、かえって日本の凄さのようなものを感じてしまうのは私だけでしょうか。

まずできる事から始める

計画、モニタリング、いわゆるPDCAサイクルの重要性が指摘されています。地域における協議会を作る事も重要です。

そこで、一般の人たちが誤解するといけないので、あえて言っておきますが、福祉サービスでは「まずできる事から始める」という大前提があります。とりあえず必要な事をするために動き出したうえで、それからよりよい計画を練ったり、環境を改善したり、チームで組織対応をしたり、地域の連携を作ったりして改善を繰り返します。それは今困難を抱えている眼の前の人が、一刻の猶予もない事があるからです。

地域の福祉計画を専門家が協議して、それから予算がついて、さらに施設が建設され、組織ができ、担当者の配置があって・・・・
という順番ではありません。大きな災害が起こったときも同じです。

有能な福祉サービスマンの場合、「まずはできる事から」が功を奏し眼の前の問題解決がうまく行きすぎて、その背景にある構造的な問題に切り込んでいく事ができないということが往々にしてあり得ます。上記の計画相談や地域の協議会は、それを防ぐという意味があります。

福祉サービスでは迷ったらまずはできる事を探す。これが原則だと思います。実践主義です。

目的を形成する際に、学習者が参加する事の重要性が強調されてよい(デューイ)

アメリカの障害者政策や医療政策を単純に日本に導入する事については、私は批判的立場です。それでも、デューイやスキナーなどの実践主義者の考え方は、学生時代に深く感銘を受け、今でも強く影響を受けている事を認めざるを得ません。

実践主義(プラグマティズム)の潮流をずっと遡るとプラトンに行きつきます。プラトンはかって奴隷を他人の欲望を実行させられている人であると定義しました。自分自身の盲目的な欲望のとりこになった者もまた奴隷であるとデューイは考えます。

デューイはその著書「経験と教育」の中で、生徒自身がこれから何を学ぶのかを取り決める活動に参加する事の重要性を説きました。目的をもって行動することの重要性といいかえてもいいと思います。現在では「利用者本人が福祉サービス計画立案に参加すること」が重視されていますが、私はこれらの福祉活動の原理は、もともとはデューイらの実践主義の流れであると考えています。

そうした考え方に影響されたこともあって、成人の「授産施設」の授産活動でも「自分自身で活動内容を決める」ことを重視したいと思いました。名東福祉会の第一の施設であるメイトウ・ワークスでは陶芸の作業が授産科目に選ばれました。そこで、私たち現場職員は
「どんなものをつくるのかを利用者とともに考え、利用者とともに実践する」
という基本的なスタイルを取りました。そして現在でも名東福祉会の諸活動には、こうした利用者と一緒に活動内容を決めるという空気が流れていると思います。

先日、私が勤務する会社の沖縄の事務所の屋根に守り神であるシーサーを飾りたくなり、天白ワークスに特注のシーサーを作ってほしい旨発注させていただきました。
しばらくたって、注文の品が焼きあがったと連絡がありましたので見に行きましたら、とても見事な、どこか愛らしいシーサーが仕上がっていました。失礼ですが、思っていたよりずっとできが良くとても満足しました。

その後、担当者がなにやら見た事もないような魔物の素焼きの大型の焼き物を奥から引っ張り出してきました。これはシーサーを製作した陶芸家(実は施設利用者の方ですが)がシーサーづくりをしていて突然閃いてあっという間に製作したものだそうです。おどろおどろしくもあり、どこかひょうきんなところもあり、それでいて異次元の煉獄の世界からワープしてきたような力を感じる芸術作品でした。これ、何の指示もなく土台の上に作り上げてしまったものなんだそうです。見事です、はい。

就労支援であろうと、生活介護であろうと、あるいはグループホームであろうと、障害者の福祉サービスにおいて大切なのは、本人が主体的に活動できる環境を作る事だと改めて思った次第です。

人は作業をこなすことで健康になれる

今日は書籍の紹介です。

◎日本作業療法士協会「作業のとらえ方と評価・支援技術」生活行為の自律に向けたマネジメント(医歯薬出版)

2012年の四月、認定調査、ケアマネジメントの研修、新制度への完全移行、利用者への説明、契約とばたつく障害福祉関係をしり目に、高齢者福祉現場では介護保険への移行から10年を経て、上記のことばに端的に表現されるような理念を持った実践主義の福祉技術が花開いています。

現在、障害者福祉が高齢者福祉に大きく水を開けられてしまっているという感があるのは私だけではないと思います。私たち障害者福祉の「デイサービス」現場はかねてから授産施設として作業をたいへん重んじて来ました。特に名古屋はその先進地として、障害が重い人でもなんらかの「意味のある(meaningful)」作業に従事し、単に工賃を稼ぐだけではなく、作業活動に伴って、様々なレベルで地域活動に参加してきました。

「意味がある」活動の方が単なる機能回復訓練よりも効果があるというエビデンスがあります。この本は利用者の主体性や実生活に焦点をあてたクライアント中心の作業療法が必要だと説きます。紹介されている作業の分野は

・日常の身の回りの作業
・家事などのIADLを維持するための作業
・趣味などの余暇的作業
・仕事などの生産的作業
・地域活動などの作業

などあくまでも実践の中に人生の質を問い直すという姿勢が貫かれています。自己決定と言うことばも随所で使用されていますが、要は、実生活を送るクライアントにどのように寄り添いながら作業活動を支援できるのかということだと。

実践事例も秀逸で、孫に手紙を気書きたいという思いを大切にした作業ではじまり、家事練習、編み物、洗濯、アクリルたわしづくり、日曜大工など、施設利用者が大切にしてきた日常に立って作業療法を展開しています。

ポイントは評価・支援技術をコンパクトにまとめていてすぐに使える様式が豊富に掲載されていること。障害者の生活介護施設のマネージャーは必見の書です。

作業療法

作業療法は成人の授産施設では死語になっていて、今ではほとんど振り返って見られることはない言葉です。他の分野の高齢者福祉、精神障害者福祉の現場では現在でも、作業療法士(OT)が配置され、「作業療法」が積極的に取り組まれていますが、知的障害者福祉分野では「作業療法」について考える人はほとんどいないのが現状です。でも、私は障害がある人の日常生活、特に新しく始まった「生活介護施設における日常のプログラム」の課題を考えるときに、もういちど注目してもいいのではないかと思います。

授産施設(現在ではセルプといいます)では、より社会参加や自立が目的となっているために、現実的な収入の糧につながるような経済活動を展開することが重視されるようになっています。例えば、大規模に印刷やクリーニング、縫製等、伝統工芸品、織物、陶磁器、家具製造等の職人的作業やパンやクッキー等の食品を作る作業、ポーチ類等の手作り布製品を作ったり、木工パズルなどを作るなどの活動が展開されるようになってきています(これは全国社会就労センター協議会(セルプ協)の情報です)。しかし、障害が重くなったり、年齢が高齢になったりすると、こうした作業に従事することは難しい人が多くなります。だいたい、知的障害者にも定年のようなものがあってもいいと思うのですがいかがでしょうか。

これから就労支援事業が就労作業によって収益を上げて行くことは難しいと思います。現在世界を重苦しく覆っている不況や、日本国内の仕事が海外にシフトしていく現状では、資本もノウハウも販売ルートももたない知的障害者施設が収益を上げ続ける事はなかなか難しいのが正直なところです。とりわけ、生活介護施設と就労支援B型施設というようにただでさえ小さな集団である施設を、施設の内部で複数の部門に分化せざるを得ないような制度設計のもとでは、作業収益を効率よく上げて行くことはこれから困難になっていくことが予想されます。また、企業の下請けとして、特例子会社ができてくると、今後、生活介護施設の魅力がじり貧になるのではないかと危惧しているところです。就労支援事業よりも作業能力の点で「下位」に位置付けられてしまっている生活介護では、職員が作業に意味を見出す事は難しいのかもしれません。

そこで原点に帰って「作業療法」です。
日本の知的障害者施設でも、1980年代以前は施設の作業は「作業療法」としての位置づけがなされていたとように思います。作業療法における作業はペグ棒を穴に差し込むだけの身体機能の改善に着目したものから、クリーニングや厨房作業など非常に実生活に近い形式で実践されるものまで幅広く展開されています。
作業は利用者の安定に結びつきます。休日を充実したものにしてくれます。旅行やレクリエーションも作業があってこそ楽しいものになります。毎日、人のために動き(これは働くという漢字の本来の字義ですが)、喜ばれる活動をする事は、生きがいや満足にもつながります。

「収益」を上げる施設が良質な施設であるとは限りません。売り上げや収益は指標としてはわかりやすいと思いますが、収益や消費などお金という指標ではとらえられない経済活動が世の中にはあります。

生活介護施設は作業しなくても良いというのは誤った理解です。私たちは作業の原点に帰って良質な生活の実現のためにもういちど作業をとらえなおす必要があるように思います。