マイケル・サンデルの白熱授業

ハーバード大学の教授のマイケル・サンデルという人がいます。この人が行う事業は、「ハーバード白熱事業」という形でNHKでも放映されたそうです。
この授業では、サンデルが正義に関する究極の質問を学生に投げかけるという手法で、正義の在るべき姿に迫っていきます。

個人的には
「随分荒っぽくて日本人には違和感のある無理筋の質問の投げかけ方だなあ」と思うのは別として、共同体の成員が迷うような具体的な事象を例に挙げ、共同体として意思決定すべき内容を取り上げ、あらかじめ成員同士で考え、話し合うことは正しいことだと思います。たとえ結論は出なくとも。

サンデルが取り上げた殺人のような極端な話はだけではなく、福祉施設の実践では全ての支援内容についてそれが「正義」なのか「悪」なのかを考える題材にすることができます。

例えば

・ひとりになりたがる利用者を個人の選択としてそのままにする事は正義か
・職員1対利用者1の散歩に出かける事は正義か
・散歩にでかけ、利用者の年金を使って利用者がコーヒーを飲む事は正義か
・工賃を稼ぐために職員が代わりに働いて利用者の収入を稼ぐ事は正義か
・障害の重い人を受け入れたため、全体としてケアの効率が下がり、既存の利用者がそれまで普通に受けることができたサービスが受けられなくなったとしても、それは正義か

逆に悪についても

・一人暮らしの知的障害がある人について個人情報の利用に関して本人の許可が取れないまま、地域ケア会議に資料提供したことは個人情報保護の観点から悪となるか
・重篤な糖尿病の患者である知的障害者に求められるまま施設のフェスティバルで提供された焼き肉を大量に食べてもらった事は悪かはたまた正義か。
・利用者が道路に飛び出す事を防ぐためにドアに鍵をかける事は悪か
・自傷が激しく、生命の危機を感じるほど頭を打ち付けてしまう利用者に対して頭を打ち付けても安全な部屋に入ってもらう事は拘束か(つまり虐待か)

サンデル自身はなかなか正義とは何か、その事例はどっちが正しいのかについて答えません。しかし、実際には障害者施設では毎日こうした問題が生じていて、私たちは常になんらかの答えを出さなければなりません。
知的障害者の福祉施設に限って考えると、職員、家族、利用者、地域の人々という地域共同体の成員を成す人がともに考え、合意し、さらにその地域の風習をも加味して考え、選択し、さらにいい方法を見つけるために不断に議論と模索を続ける法人が正義の法人なのでしょう。実際のところ、間違えてもしょうがないような事ばかりなのですから。少なくとも、疑問を持ったまま職員として悶々と悩むのは体に悪いのではないかと思います。

人知らずしてうらまず、また君子ならずや

論語が流行っているのだそうです。

「子曰く、学びて時に之を習う、またよろこばしからずや」
これを知的障害者の福祉的の世界に置き換えると
「本人にいいものは、これまで学んだことがあってもどんどん積極的に学びましょう。」
となります。

「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」
というのは
「考え方が違う人が法人の外から来て、その人が紹介してくれたいいものを取り入れると、これまでにはなかったいい事が利用者に起こる。」
となります。

「人知らずしてうらまず、また君子ならずや」
これは
「人知れずこつこつと利用者を支えることが本物の福祉マン」
ということなのかと。

福祉の方法論について上記のように柔軟に学び、効果のある実用的な技法を取り入れ改善を続けると、技法の開発者としては有名になれないかもしれません。でも利用者のために研鑽を続けているとそんなことはどうでもよくなり、最後には利用者が生活する地域が利用者にとって住みやすい地域になったかどうかだけが問題になります。
福祉サービスでは「陰」の支援時間が大半です。こつこつと利用者の傍らで支援作業を行っているとき、他のスタッフは誰も見ていないことが常です。しかし、そんなときでも利用者は誰が君子であるのか知っているのです。

福祉サービス従事者の心得としても論語は現代にも生きているのだと思います。

アメリカのプラグマティズム

最近、日経や正論等の言論誌でプラグマティズム(実用主義)という言葉を目にするようになりました。

この言葉はあまり気にもとめず気軽に使ってきましたが、ほんとうのところはどうなのかと思いアメリカの歴史的な背景から調べてみる事にしました。

それで、アメリカの建国の思想を自分なりにまとめると
1国は個人を幸せにするために存在している
2多民族が集まってできた国なのでひとつの価値観を押し付けられてもうまくいくはずがない
3個人が幸せかどうかは、理論ではなく実際に諸問題を解決した実践の結果で判断する
というところに行きつくのではないでかと思います。

アメリカはイギリスの植民地でしたから砂糖税とか茶税とか全てのパンフレットなどに貼らなければならない印紙とかで随分苦しめられました。その苦しい経験から国家の役割は個人を幸せな生活に導く事であると強く意識したといいます。

アメリカには黒人奴隷、南米からのヒスパニック、アジア系移民、ユダヤ人、イギリス人などいろんな人たちが存在していて、その上、トウモロコシで命を助けてもらったのにもかかわらず迫害をしてしまったインディアンの人たちもいます。それらの人たちは決して混合することなくそれぞれの宗教を持った多民族国家を形成しています。

それゆえ国として超越的な道徳や理念を与えられて実践するような事は不可能で、具体的な解決策は地域共同体のなかでいい結果を生みだす実用的な結論を模索するしかなかったといえます。そもそもイギリスから脱出してきた人たちは宗教的な迫害から逃れてきた人たちですし。

もともとの地域福祉の出発であった欧州のノーマライゼーションは「脱施設」ですが日本では「脱施設」というよりはアメリカのプラグマティズムの影響を強く受けていると考えられます。つまり
1個人の幸せを実践する方法に焦点を当てて考える(できる事探し)
2地域の福祉実践のキーマンが集まって解決策を模索する
3結果がでなければ方法を変える
ということで、前記のアメリカの建国の思想とよく符合します。

ところが、理論や難しい戒律ではなく、実際に幸せにつながる行動を郷土の人間が協力し合って実践しようという事に限っていうならば、日本では2000年も前から、もっといえば縄文時代からそうしてきたのではないかと、そんな風にかえって日本の福祉思想を見直すべきだと思えもします。

アメリカの思想を勉強すると、かえって日本の凄さのようなものを感じてしまうのは私だけでしょうか。

まずできる事から始める

計画、モニタリング、いわゆるPDCAサイクルの重要性が指摘されています。地域における協議会を作る事も重要です。

そこで、一般の人たちが誤解するといけないので、あえて言っておきますが、福祉サービスでは「まずできる事から始める」という大前提があります。とりあえず必要な事をするために動き出したうえで、それからよりよい計画を練ったり、環境を改善したり、チームで組織対応をしたり、地域の連携を作ったりして改善を繰り返します。それは今困難を抱えている眼の前の人が、一刻の猶予もない事があるからです。

地域の福祉計画を専門家が協議して、それから予算がついて、さらに施設が建設され、組織ができ、担当者の配置があって・・・・
という順番ではありません。大きな災害が起こったときも同じです。

有能な福祉サービスマンの場合、「まずはできる事から」が功を奏し眼の前の問題解決がうまく行きすぎて、その背景にある構造的な問題に切り込んでいく事ができないということが往々にしてあり得ます。上記の計画相談や地域の協議会は、それを防ぐという意味があります。

福祉サービスでは迷ったらまずはできる事を探す。これが原則だと思います。実践主義です。

目的を形成する際に、学習者が参加する事の重要性が強調されてよい(デューイ)

アメリカの障害者政策や医療政策を単純に日本に導入する事については、私は批判的立場です。それでも、デューイやスキナーなどの実践主義者の考え方は、学生時代に深く感銘を受け、今でも強く影響を受けている事を認めざるを得ません。

実践主義(プラグマティズム)の潮流をずっと遡るとプラトンに行きつきます。プラトンはかって奴隷を他人の欲望を実行させられている人であると定義しました。自分自身の盲目的な欲望のとりこになった者もまた奴隷であるとデューイは考えます。

デューイはその著書「経験と教育」の中で、生徒自身がこれから何を学ぶのかを取り決める活動に参加する事の重要性を説きました。目的をもって行動することの重要性といいかえてもいいと思います。現在では「利用者本人が福祉サービス計画立案に参加すること」が重視されていますが、私はこれらの福祉活動の原理は、もともとはデューイらの実践主義の流れであると考えています。

そうした考え方に影響されたこともあって、成人の「授産施設」の授産活動でも「自分自身で活動内容を決める」ことを重視したいと思いました。名東福祉会の第一の施設であるメイトウ・ワークスでは陶芸の作業が授産科目に選ばれました。そこで、私たち現場職員は
「どんなものをつくるのかを利用者とともに考え、利用者とともに実践する」
という基本的なスタイルを取りました。そして現在でも名東福祉会の諸活動には、こうした利用者と一緒に活動内容を決めるという空気が流れていると思います。

先日、私が勤務する会社の沖縄の事務所の屋根に守り神であるシーサーを飾りたくなり、天白ワークスに特注のシーサーを作ってほしい旨発注させていただきました。
しばらくたって、注文の品が焼きあがったと連絡がありましたので見に行きましたら、とても見事な、どこか愛らしいシーサーが仕上がっていました。失礼ですが、思っていたよりずっとできが良くとても満足しました。

その後、担当者がなにやら見た事もないような魔物の素焼きの大型の焼き物を奥から引っ張り出してきました。これはシーサーを製作した陶芸家(実は施設利用者の方ですが)がシーサーづくりをしていて突然閃いてあっという間に製作したものだそうです。おどろおどろしくもあり、どこかひょうきんなところもあり、それでいて異次元の煉獄の世界からワープしてきたような力を感じる芸術作品でした。これ、何の指示もなく土台の上に作り上げてしまったものなんだそうです。見事です、はい。

就労支援であろうと、生活介護であろうと、あるいはグループホームであろうと、障害者の福祉サービスにおいて大切なのは、本人が主体的に活動できる環境を作る事だと改めて思った次第です。

人は作業をこなすことで健康になれる

今日は書籍の紹介です。

◎日本作業療法士協会「作業のとらえ方と評価・支援技術」生活行為の自律に向けたマネジメント(医歯薬出版)

2012年の四月、認定調査、ケアマネジメントの研修、新制度への完全移行、利用者への説明、契約とばたつく障害福祉関係をしり目に、高齢者福祉現場では介護保険への移行から10年を経て、上記のことばに端的に表現されるような理念を持った実践主義の福祉技術が花開いています。

現在、障害者福祉が高齢者福祉に大きく水を開けられてしまっているという感があるのは私だけではないと思います。私たち障害者福祉の「デイサービス」現場はかねてから授産施設として作業をたいへん重んじて来ました。特に名古屋はその先進地として、障害が重い人でもなんらかの「意味のある(meaningful)」作業に従事し、単に工賃を稼ぐだけではなく、作業活動に伴って、様々なレベルで地域活動に参加してきました。

「意味がある」活動の方が単なる機能回復訓練よりも効果があるというエビデンスがあります。この本は利用者の主体性や実生活に焦点をあてたクライアント中心の作業療法が必要だと説きます。紹介されている作業の分野は

・日常の身の回りの作業
・家事などのIADLを維持するための作業
・趣味などの余暇的作業
・仕事などの生産的作業
・地域活動などの作業

などあくまでも実践の中に人生の質を問い直すという姿勢が貫かれています。自己決定と言うことばも随所で使用されていますが、要は、実生活を送るクライアントにどのように寄り添いながら作業活動を支援できるのかということだと。

実践事例も秀逸で、孫に手紙を気書きたいという思いを大切にした作業ではじまり、家事練習、編み物、洗濯、アクリルたわしづくり、日曜大工など、施設利用者が大切にしてきた日常に立って作業療法を展開しています。

ポイントは評価・支援技術をコンパクトにまとめていてすぐに使える様式が豊富に掲載されていること。障害者の生活介護施設のマネージャーは必見の書です。

作業療法

作業療法は成人の授産施設では死語になっていて、今ではほとんど振り返って見られることはない言葉です。他の分野の高齢者福祉、精神障害者福祉の現場では現在でも、作業療法士(OT)が配置され、「作業療法」が積極的に取り組まれていますが、知的障害者福祉分野では「作業療法」について考える人はほとんどいないのが現状です。でも、私は障害がある人の日常生活、特に新しく始まった「生活介護施設における日常のプログラム」の課題を考えるときに、もういちど注目してもいいのではないかと思います。

授産施設(現在ではセルプといいます)では、より社会参加や自立が目的となっているために、現実的な収入の糧につながるような経済活動を展開することが重視されるようになっています。例えば、大規模に印刷やクリーニング、縫製等、伝統工芸品、織物、陶磁器、家具製造等の職人的作業やパンやクッキー等の食品を作る作業、ポーチ類等の手作り布製品を作ったり、木工パズルなどを作るなどの活動が展開されるようになってきています(これは全国社会就労センター協議会(セルプ協)の情報です)。しかし、障害が重くなったり、年齢が高齢になったりすると、こうした作業に従事することは難しい人が多くなります。だいたい、知的障害者にも定年のようなものがあってもいいと思うのですがいかがでしょうか。

これから就労支援事業が就労作業によって収益を上げて行くことは難しいと思います。現在世界を重苦しく覆っている不況や、日本国内の仕事が海外にシフトしていく現状では、資本もノウハウも販売ルートももたない知的障害者施設が収益を上げ続ける事はなかなか難しいのが正直なところです。とりわけ、生活介護施設と就労支援B型施設というようにただでさえ小さな集団である施設を、施設の内部で複数の部門に分化せざるを得ないような制度設計のもとでは、作業収益を効率よく上げて行くことはこれから困難になっていくことが予想されます。また、企業の下請けとして、特例子会社ができてくると、今後、生活介護施設の魅力がじり貧になるのではないかと危惧しているところです。就労支援事業よりも作業能力の点で「下位」に位置付けられてしまっている生活介護では、職員が作業に意味を見出す事は難しいのかもしれません。

そこで原点に帰って「作業療法」です。
日本の知的障害者施設でも、1980年代以前は施設の作業は「作業療法」としての位置づけがなされていたとように思います。作業療法における作業はペグ棒を穴に差し込むだけの身体機能の改善に着目したものから、クリーニングや厨房作業など非常に実生活に近い形式で実践されるものまで幅広く展開されています。
作業は利用者の安定に結びつきます。休日を充実したものにしてくれます。旅行やレクリエーションも作業があってこそ楽しいものになります。毎日、人のために動き(これは働くという漢字の本来の字義ですが)、喜ばれる活動をする事は、生きがいや満足にもつながります。

「収益」を上げる施設が良質な施設であるとは限りません。売り上げや収益は指標としてはわかりやすいと思いますが、収益や消費などお金という指標ではとらえられない経済活動が世の中にはあります。

生活介護施設は作業しなくても良いというのは誤った理解です。私たちは作業の原点に帰って良質な生活の実現のためにもういちど作業をとらえなおす必要があるように思います。

施設利用者の高齢化が進んでいる

私ごとで恐縮ですが、私の兄は今年で62才となります。後数年で正真正銘の介護保険の被保険者となります。もともと左半身に麻痺がありましたが、最近では車椅子での生活になりました。レジデンス日進では定期的にリハビリに通院してくれています。しかしもともと医療施設ではありませんから、通院等、職員の負担も大きいと思います。最近では足に腫瘍も見つかっています。今年で名東福祉会は30周年を迎えます。同じような境遇にある人がいて、利用者の高齢化問題はこの先ますます深刻になってくる事が予想されます。10年後は現在の兄と同じようなニーズを抱えた施設利用者が増えてくる事でしょう。また親の高齢化は利用者の高齢化以上に進んでいますから、高齢知的障害者対策は喫緊の課題でもあります。

しかし、肝心の高齢知的障害者のケアのあるべき姿についてはその方向性さえ明らかではありません。
(1)現状の障害者福祉制度の枠内にとどまり、制度や施設を高齢知的障害者に使いやすく改定していくべきなのか
(2)高齢知的障害者専用のホームをつくって対応すべきなのか
(3)既存の高齢者介護制度を利用すべきなのか
いろいろな選択肢が考えられます。それぞれに費用や生活のありようと介護方法をめぐって長所と短所があると思います。

既存の高齢者の介護福祉サービスを受けるようにするならば、
・身体介護の状況と介護保険の要介護認定調査
・資金的援助や介護に関する兄弟の支援の状況
・生活保護と絡んだ収入や財産の状況
・成年後見人の意見
など、非常に個人的な情報を含めた研究が必要となります。悪い事に、知的障害者福祉の世界では、福祉サービスの提供者側はこうした「個人情報」が全くわからない状況にあり、専門性が育っていません。名東福祉会は過去何度も高齢者福祉に進出を行政に打診した事がありますがいずれも拒否されています。名東福祉会は母体が医療機関ではありませんから、経営基盤やニーズの点で無理があったのも確かです。

障害者自立支援法(平成17年)は一部施行、利用者負担無料化、障害者自立支援法改正案(平成22年)を経てこれまで度々ごたごたしてきました。そして現在は「税と社会保障の一体改革」でいったい何を改革しているのかわかりませんが、ますます混迷の度を極めています。このままでは失われた障害者福祉の10年や20年になりかねません。こうした時は必ず訪れる「高齢知的障害問題」のために腹を割って話し合える場を自分たちでつくるしかないのではないかと思います。

実現要因の改善

行動のモデルには様々なものがありますが、L.W.グリーンのPPモデルでは行動に影響を与える要因として次の三つにまとめて考えています。
(1)前提要因
行動に先立つ要因。その行動の倫理的根拠とか動機。例えば知識、態度、信念、価値観、ニーズ、能力などをひっくるめたもの
(2)実現要因
行動の実行を起こりやすくする環境の要因。各種の社会資源や地域の資源の利便性、近づきやすさ、料金の安さなど
(3)強化要因
ある行動が起こった後に、その行動を増加させる正のフィードバックを与える要因すべて

このモデルは、今では先進国のほとんどの保健政策で採用されているモデルとなっています。日本の厚生労働省も例外ではなく、「健康日本21」のモデルの下敷きになった考え方です。このモデルは社会学習理論がベースにありますから、保健衛生政策を立案する上で親和性が高い事が普及に結びついたのだと思います。それだけに、私たちのような障害福祉政策においても使いやすいモデルとなっていると思います。それで、名東福祉会の基本理念でもこのモデルを若干修正し、採用したモデルを事業報告書でも掲載しています。

福祉政策において(1)の前提要因の改善策を実践することはもちろん重要です。ですが、(2)のように、障害がある人が望んだ行動を実現しやすくなるように、地域社会の環境をつくりこんでいく政策を実践する事も重要です。1980年代から2000年にかけてのノーマライゼーション運動は、社会学習理論の立場からいいかえれば、前提要因を改善するための訓練や治療的アプローチを重視する政策から、実現要因に対する働きかけ、すなわち社会へのアプローチに重心を移そうという運動でもありました。このブログでもたびたび話題になる「地域の協働性」ですが、本質的には、本人が望む行動が実現しやすいように、地域の生活環境を改善していく運動に他なりません。

前提要因、実現要因、強化要因はそれぞれ独立しているのではなく、相互に連関し合っています。例えば実現要因の改善によって望ましい行動が生まれ、それに対して支援者の強化要因も改善され、さらに成功体験が本人やまわりの人の知識を深めて態度や信念を変えていきます。であれば、社会福祉施設の支援員は、内にとどまらず、外へ外へと行動を広げていくことが重要であると考えられます。これは表現するといいかえることができるかもしれません。

表現という活動には絵画、踊り、歌、陶芸作品などの芸術に属すものから、パンやクッキーなどの製品や下請け作業など幅広い活動を含みます。これらは本人の内側にとどまらず、外に向かって社会的な行動となり得るものであり、表現という言葉が当てはまるからです。表現は、正に「プロセス」そのものが実現要因に影響を与えます。メイトウ・ワークス30年以上前から実践されてきた陶芸作業も、障害がある人の力を社会が再認識するのに十分な活動でした。陶芸製品に多くの人が関わりを持ち、そのかかわりが地域の協働性を深めて行ったことは何人も否定できません。

表現の過程を大切にする

「結果がすべてである」というのは、結果責任の軽視の風潮に釘をさす警告の意味合いがあるからです。特に、政治家が結果責任を問われて「プロセスが大切」なんて言うのは、責任逃れのようであり得ませんよね。

でも、よくよく考えてみれば、「結果」と「過程」は明確に区別できるものではありません。得られた「結果」が新たな「目標」を生み、目標を実現する次の「過程」に繋がっていくからです。特に障害福祉は連綿と続く過程の中に諸活動がありますからなおさらです。

名東福祉会では陶芸やたいこ、ダンスに歌など、いろいろな「表現」の機会があります。もちろん名東福祉会だけではなく、多くの知的障害施設では「表現活動」を大切にしています。
ある事を「表現」しようと思ったら、日々、多様な過程を経ます。例えば小さな陶芸製品の注文を受けて、それを作ろうという仕事をするときにも、土屋さん、釉薬屋さんなどと打ち合わせが必要になります。納品のための箱も作らなければなりません。場合によっては陶芸のプロの話も聞きます。陶芸製品のデザインは指導員だけではできません。利用者の人が得意とする表現をその製品に反映させてこそ利用者の製品となります。ひとつの陶芸製品を「表現」するためにも莫大な人が関わります。そのプロセスが社会とのつながりであり、「表現」になります。祭りをやれば、発し手と受け手の間で多様な表現が生まれます。

伝統的に「表現の活動」が福祉施設で重視されているのは、「表現活動」がよい効果、よい結果を生むからでしょう。障害は、社会との関係で生まれる側面があります。表現の過程を社会と共有し、お互いに楽しむ事によって、社会も影響を受け、ひいては障害の性質そのものが変化していきます。

新しい制度がスタートしましたが、伝統的な表現過程は、生活介護施設の活動の中でも重要な地位を占めていくと思います。

障害福祉予算が足りない

これまで障害福祉予算は橋元内閣、小泉内閣の構造改革路線でさんざんな目にあってきています。ですが障害福祉予算に正当なお金を投ずることは無駄ではありません。かえって、この分野の投資を行うことは、大震災で傷ついた日本の経済を再生させるだけではなく、強靭でしなやかな国をつくることに繋がるからです。

障害者福祉への予算配分は財政破たんの原因になるという風潮があります。しかしそれは偏った見方であって事実ではありません。そもそも障害福祉サービス関連消費はGDPに含まれます。私は経済については専門ではありませんが、自分の職業である情報産業の仕事を通じて、この分野の投資不足が日本の遅れにつながっていると感じている一人ではあります。障害福祉サービスは直接的なサービス費用の他にも、様々な関連産業があります。

・障害があっても往来が安心してできる使いやすい建築物の建設
・障害がある人にもアクセスしやすい情報技術の開発
・誰でも簡単に利用でき、全国どこにでも移動できる交通機関
・ロボット技術を生かした障害支援
・個々のニーズに沿ったオーダーメイド医療
・障害者の社会参加を促す教育技術

いろいろ考えられます。日本が誇る技術を障害福祉分野に生かす機会はいくらでもあります。これは障害者に限定した投資ではなく、東日本大震災の発生をきっかけとしてこれから来ると思われる大災害への備えでもあるのです。

しかるに、障害関係に割り振る日本の予算は極めて貧弱です。厚生労働省自身、わが国の障害者関連予算が極めて少ないと認めています。長くなりますが、引用してみましょう。

http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/sougoufukusi/2011/08/dl/0830-1a01_02_04.pdf

(引用開始)
財政についての基本的な視点
【結論】
○ 障害関連の財政規模については、OECD 加盟国の平均値並みの水準を確保すること。
○ 財政における地域間格差の是正を図り、その調整の仕組みを設けること。
○ 財政設計にあたっては、一般施策での予算化を追求すること。
○ 障害者施策の推進と経済効果等の関連を客観的に推し量ること。
【説明】
積算作業の前提として、また制定後の障害者総合福祉法がより実質的で効力のある法律となるために、財政面でとくに留意すべき4つの視点がある。
1.障害関連の財政規模については、OECD 加盟国の平均値並みの水準を確保すること。
障害者福祉の予算水準のあり方を考える上で、参考になるのが OECD 諸国との比較である。地域生活をささえる支援サービスの予算規模(障害者に対する現物給付。ほぼ障害者自立支援法によるサービス費用に相当)について、OECD 諸国の対 GDP 比平均を計算したところ、0.392%(小数点第4位を四捨五入)であった(OECD SOCX2010。2007 年データ。34 カ国のうち、データなしのアメリカ・カナダを除く 32 カ国を集計)。
ところが、日本は 0.198%(1兆 1138 億円に相当)であり、OECD 諸国のなかで第 18 位であった。これを平均値並み(GDP の 0.392%)に引きあげるには、GDP 比0.193%(約 1 兆 857 億円)の増額が必要であり、総計で現在の約 2 倍に当たる2兆 2051 億円となる。また 10 位(0.520%)以内では約 2.6 倍に当たる2兆 9251 億円となる。(2007 年の日本の GDP 総額は 562兆 5200 億円)。
以上のデータから見ても、日本の障害者福祉予算の水準は、OECD 諸国に比して極めて低水準であり、少なくともこれを OECD 加盟国の平均値並みの水準に引き上げることが求められるが、その際、支出・給付面と国民負担率などの負担面を合わせて総合的に検討を行うべきである。
(引用止め)

私たちの国の障害者福祉予算は非常に小さいのですね。
2011年は、私たちの国のGDPは468兆円(名目)にまで下がってしまいました。失われた20年がなくて、他国並みに20年間成長を続けていたら今頃は1000兆くらいのGDPにはなっているといわれています。なにしろ、あのEU諸国でさえ成長しているのですから。もしGDPが1000兆で、OECD諸国の平均並みの0.392%の障害福祉予算が組まれていたとすると3.9兆円の予算になります。これは現在の3.6倍もの予算になります。今の3倍予算があったら!障害がある人の収入もさぞかし増えていることでしょう。

現在、消費税の議論が行われています。しかし、こうした将来への備えを優先する議論を一切せずに消費税だけを上げるのは間違いだと思います。正しい成長戦略と先を見越した障害福祉政策があれば、消費税増税は必要ないと思います。

ちょっと今日は独り言です。

障害者福祉でもっとも必要なのは、利用者と支援者の生きた往来を明確化して反復・修正していく技術だと思います。

福祉の世界は原理・原則の議論が大好きです。
例えば本人主体、選択の自由、権利擁護、自己権利擁護、虐待防止、透明性、説明責任、ノーマライゼーション、福祉理念・・・
数え切れない「理屈」あるいは「理」に関する言葉が並びますが、ひとつひとつの言葉はその定義すら定まりません。
人は一般に、原理原則の議論が大好きです。まるでこの世は「理」によって支配されているかのようです。
しかし原理主義は厳格主義につながり、例外を認めない硬い福祉になる恐れがあります。

「理」に対して「気」という言葉があります。
空気、雰囲気、人気、元気、活気、気分、意気、殺気、語気、やる気・・・
施設を訪問して利用者の人たちの記録を読めば、「気」がつく言葉が多く目に付くはずです。福祉の世界では「気」も重要な言葉として私たちの仕事を支配しています。
特に「空気」という言葉は問題があります。ひところ「空気が読めない<KY>」という言葉が流行りました。この言葉によってどれだけ福祉施設の多様な試みがつぶされて来たでしょう。

私たち知的障害者福祉にかかわるものは、「理屈」でもないし、「空気」でもないところで動くしかないのではないかと思います。
私たちはお互いに影響しあう「文脈」の中で生きています。一連の行動や環境の流れといったらいいのでしょうか。
私が行動療育について学んだことで、最も重要であると感じることは、子供と療育者の相互の行動の文脈の中にこそ療育の本質があるという事です。
これがよい支援であるのか、望ましくない支援であるのかは、やってみるまで、あらかじめ誰も決めることができません。
その価値は、支援を必要としている行動の筋道や背景(文脈)をみなければわかりません。本人とまわりの人たちの試行錯誤の結果としてその価値が決まるのです。
モニタリング(評価)という手法があります。評価というとちょっと意味が狭くなります。私は、特定の福祉的対応を行うことによって新たにどんな課題が必要になったのか、新しい「道」を見つける作業のことと考えています。

私は、提供する福祉の価値を左右し、自分たちをより向上させるものは自分たちの行動と利用者の行動をモニタリングすることにあると思います。それは自分たちがまさにそこに生きて動いているその「往来」を見つめることと言い換えてもいいかも知れません。人の往来を見つめ続け、実際にその往来に立って歩くことで人は支援技術を磨いていけるのだと思います。

虐待防止法

施設事業者としては言いたい事がやまほどある虐待防止法です。でも、どうせこうした法律が制定されるなら、これを契機に利用者のために知恵を出し合う事が最善と思います。
虐待はどうして生まれるのかを現場で考えましょう。相手が思うように動いてくれないから始まって、ルールに従わない、支援者に反抗する、さらに危険な行動を続けるといった事がきっかけとなります。
「支援者の虐待」というおぞましい言葉を当てはめざるを得ない状況まで支援者と利用者の関係がこじれてしまう前に、現場で知恵を出し合って、原因を探ります。各現場でナゼを繰り返し原因を突き止めましょう。
なぜ支援者は強引に利用者を止めようとしたのか?
→それは利用者の方が道路に飛び出そうとしたから
ではなぜ道路に飛び出すのか?
→それは、散歩に行くために入口が空いていたから
ではなぜ散歩にみんなが出かける前になぜ支援員が側にいなかったのか?
→散歩の準備と連絡をするために支援員が離れる必要があったから
ではなぜ準備と連絡に離れる必要があるのか?
・・・
といろいろと徹底的に原因を遡ったり、具体的な支援の動作を細かいステップに分析したり・・・。
私たち名東福祉会は相談についても行動療育もそれなりの技術を持っていると思います。課題はそれを法人全体で共有していない事なのです。
支援員個人の資質にしない事が大切でしょう。何事も利用者のためにを合言葉に支援内容を改善していく事が、施設における虐待撲滅の近道なんだと思います。

選択という道具

知的障害者の施設で選択を重要視するのは
・現代では選択は自由と民主主義の本質と考えられている
・従って、権利を擁護するためには選択可能性は必須ではないか
と考えてきたからです。しかし、選択には様々な欠陥があります。いいかえれば、選択してもらったからといって権利が保障されているわけではないということです。

その理由としては
・選択セットの中にろくなものがないかもしれない
・好んでした選択を繰り返した結果、長期的には本人にメリットがもたらされないかもしれない
ということがあるからです。従って、選択を提示するにしても、
・長期的な選択(少なくとも数年間)の提示
・中期な選択(数日から数週間)の提示
・短期的な選択(数時間)の提示
のすべてのレベルで確認が必要となります。そして確認の際には、「選択肢の中にいいものがありません」という選択も認められていないといけません。せめてこれくらいは、選択のときにやっておかなければなりません。

もちろん、短期的な選択しかしていない福祉サービスにとっては上記の事に気づき、改善する事はある程度意味があります。
しかし、ほんとうのことをいうと、日常の場面で、どっちを選ぶのかはどうでもよくて、「僕はあなたを選んでいるのだから、あなたが決めてください」ということが多いのではないのでしょうか。

福祉サービスの提供者だけではなく、教育者、医者、警察官、役人、議員、消防士、自衛官、海上保安官も実は、<今目の前で助けを求めている人>にどのような手助けをすべきなのか選択をゆだねれられています。実は、選択の設定を含めて選択の本質的な責任は選択の提示側にあります。極限の場面では、選択をゆだねた人間に従うしかないのです。知的障害者の福祉施設では、このことを意識する必要があるように思います。

どんな教育内容にするのか、どんな支援内容にするのかを決めるのは教育者や支援者だという意識と責任感がなければ、いい支援や教育ができるはずがありません。

私は選択という道具は必要ないというのではありません。むしろ、生活では常に選択を求められます。そのとき多様なレベルで「選択をゆだねられた人間」が生じます。特に、共同生活では。

選択をゆだねられた人は、遠くの目標を定めて、近くの道標を確認し、それに向かうためのよい方法を提示し、その意図や結果を本人に確認するしかありません。他者に道を選ぶ事をゆだねられた人はそれはもう身を引き締めて道を選ぶしかないのです。その意味では細かく政策を決めてから<契約選挙>を行うマニフェスト選挙も本当は間違いです。本当は、自分が任せても大丈夫だと思う人に政策づくりをゆだねて後は責任を持ってやってもらうしかないのだと思います(おっと、脱線!)。

選択を提示する側も、提示される側も完全ではないことは承知の上です。そこをなんとかやっていかなければならないのでしょうね。それが現実の生活です。私は、選択はそのようなものだと思います。

権利擁護はわかりにくい言葉

権利擁護(アドボケート)の語源を調べてみたら、
ad(=to) + vocare(=call) + ate(=person)ということで、早い話が「人の助けを呼ぶ人」だそうです。転じて弁護士の意味になっていったようです。
ということは、「生活上でお困りごとがあったらそれにお答えすること」が権利擁護のそもそもの意味になります。
権利擁護をもっと過激にした言葉に「自己権利擁護」というのがあります。

これも本来の意味からすれば「困った時に相談者を呼んでみる」というくらいの意味です。障害者生活支援センターは四六時中呼び出しがあってそれに応えているから、本質的な自己権利擁護の仕事をしているということになります。

もっとも、家政婦のミタさんのように、依頼されたら殺人や放火でもするというのは困りますが。

日本にはもともと絆(きずな)とか、縁(えにし)とか、結まある(ゆいまある)(沖縄ですが)とかあります。無味乾燥で分かりにくいアドボカシーよりも、深くて強くてしなやかで優れた言葉だと思います。

最近は、古くなったアパートを現代のニーズに合わせて再生させるリノベーションが流行っているそうです。リノベーションとは古くなった建物を間取り等を大幅に改築してそれまでの価値以上の物を新しく生み出すように再生させる事。

出張中に、東京のある木造アパートは共同キッチンと共同リビングがあるリノベーションで生まれ変わったという番組を見ました。
住民たちは楽しそうで、そのアパートに帰って住人と何かいっしょに食べたり飲んだりしながら今日あった事などを話しています。疑似家族のようです。ちょっとメゾン一刻がめちゃくちゃおしゃれになったような不思議な空間でした。

日本漢字能力検定協会が発表した2011年を表す漢字は「絆」でした。今年もますます「絆」をコンセプトとしたサービスが優位に立つでしょう。

知的障害者の福祉の世界においては本来、「絆」は専売特許といっていいくらい大切な、大切な言葉だと思います。絆とは人と人を離れがたくしているものです。私たちの仕事は「障害者自立支援」ですが、自立とは集団の中で浮遊しているような孤立ではなく、<必要なときに必要な人とかかわる力を自ら持てるようにする支援>だと思います。言い換えれば、本人にとって有意義な「絆」をつくるための支援なのかもしれません。

絆を感じることができる時間づくり、空間づくり、人づくり、仕事づくり、街づくりを通して、地域の中に「絆」を張り巡らすことができればいいと思います。もっとも、絆でがんじがらめになって身動きが取れなくならないようにもしなければね。プロならば。

今、増税ですか・・・

GDPっておおざっぱにいえば日本国内で消費されたお金の総額です。確かに、GDPの社会保障に占める割合は大きくなっています。反面、日本のGDPの伸びは停滞しています。

ただ、名東福祉会のような障害者福祉団体の活動では、往々にしてこのGDPに反映されられないような「経済活動」をしています。

例えば、施設のボランティア活動は施設職員と変わらない活動をする事がありますが、無償であるためGDPには加算されません。
物を購入して使うのではなく、誰かのものを共同で使ったりする事もGDPには反映されません。上ノ山の畑で採れたものを給食で使用すると、もちろんGDPには反映されません。

利用者の日中活動で、「ご近所の役に立つ」ために、畑で採れた花をリサイクルの植木鉢に植え、それを無償でご近所にお配りしても工賃は稼げません。でも、「お礼」として地域の夏祭りにご招待されたり、地元出身の野球選手が来てサイン会が行われたり、ギター演奏やバイオリンの演奏会があったりするかもしれません。お金は動きませんからこれらの活動は本質的にGDPには無関係です。無関係ですが、お金を稼いで使う以上の喜びは感じる事ができると思います。

社会福祉の活動にはお金がかかります。しかし、工夫次第でお金がかけずに生活の質を向上することも可能だと思います。経済指標では計り知れないのが福祉活動です。
増税をして、社会保障にあてるというのは、何か、社会保障が増税のいいわけのネタにされているようで嫌な感じがします。

それよりも、施設建設の規制を撤廃するとか、提出書類を減らして実質的に利用者が満足するための時間をとりやすくするとか、子どもたちが福祉施設での活動体験を増やすようにするとか、障害者が企業で働きやすくするとか、気の合った仲間どうしでも施設を運営できるようにするとか、もっと社会福祉施設の活動がやりやすいような環境を整えることに力を入れてくれればいいのにと思います。GDPや消費税とは無関係ですから。