世襲批判の批判

人間の行動は環境から影響を受けると同時に、環境に対しても影響をあたえる。子どもにとって、親は環境そのものであり、親の行動が子どもの行動に影響を与えると同時に、子どもの行動も親の行動に影響を与える。

また親の行動は、地域社会の成員にも影響を与える。親は障害がある子どもにとって最良の教師であると同時に、地域社会の人々にとってもモデルともリーダーともなりうる。

逆に、親は子どもの行動形成にとって最悪のモデルともなり、同時に子どもは親にとって最大の敵にもなりうる。親が子どもの福祉の破壊者になりうる可能性さえある。「子殺し」という言葉があるが、この豊かな日本で障害がある子どもを死に追いやってしまった事例は枚挙に暇がない。親は、自分自身がそのような存在になりかねないことを薄々知っていると思う。同時に、障害がある子どもの兄弟は、そうした不幸で恐ろしい事態にいつなるかわからない不安を抱えながら、そうした事態にならないよう踏みとどまりつつ日々奮闘する親の姿を見ながら成長していく。

日本の知的障害者福祉の充実に、親が果たしてきた役割を否定する人はいないだろう。また、そうした親の行動を理解して無言の協力をしてきた兄弟の存在もある。

知的障害者福祉においては、家族でなければ、自分自身の運命に対するあきらめと、暖かい支援に触れたときのありがたさと、こうすべきであるという信念を共存させることは難しいのではないか。
もちろん、家族以外であってもそうしたことができないというのではない。だが、家族であれば、収益や利権や名声とは無縁の世界で奉仕することができる可能性があり、親が望んだ夢を諦めと共に継承していくエネルギーもあると思う。

日本の知的障害者福祉は、法制化されてからを見ても60年近くになる。世代でいえば完全に2世代だ。そういえば、「世」という字ももともとは「三十」という意味だそうで、本来「世」は親子間の関係が横たわっている文字だ。知的障害者福祉の世代間の継承はすでに進んできている。そうした家族間の継承があって福祉はなんとかここまできた。

知的障害者福祉に限らず、親子間の文化の継承がなければ伝統は存在しない。これはヨーロッパにおいても同じだ。老舗、芸能、学問など、すべての伝統が親子の関係を除いては成り立ちえなかったはずだ。

今日本の政治は「世襲批判」に明け暮れている。なんという低レベルな論争なのかと思う。