今日は土曜日なので本来ならレジデンス日進の皆さんは自宅に帰る日です。しかし、家族会の主催で春祭りが行われることになり、朝から準備に追われているようでした。
私は久しぶりに屋上へ上がってみて、嬉しくなりました。
ぼつぼつバラの花が咲き始めていましたし、モツコウバラがたわわに黄色い花を付け始め、まだ、アーチ全体に花房がついているわけえはないのですが、みごとな花のつきように、満開の様子が想像されました。また、紫ランも色を見せ始め、2週間も回って屋上ガーデンを満喫いたしました。せっせと家族会のFさんとYさんが手入れをしてくださって、ハーブ、ラベンダーも見事です。
今日の春祭りのテーブルいっぱい花が活けてありました。春祭りは家族会の皆さんで掘ったたけの子は手みやげに、美味しい焼きそばやおにぎり、から揚げ等を賞味したあと、ゲームやいろいろ遊びもあって、ストレッチ体操をしました。でも体がついていきません。みんなはすごく楽しそうに嬉しそうにやっていました。利用者みんなの笑顔を見ているだけで幸せです。
2007年のアーカイブ
地域福祉をすすめるのは地域の中に入り込んで心と心をありのままにさらけ出しあって付き合ってゆかねば本物は得られません。
そういう意味も含めて最近は障害福祉関係の地域のいろいろな催しにできる限り出席しています。
ある催しで障害者のお母さんとお話をいたしました。
そのお母さんがおっしゃるには、わが子に障害があることがわかったときから、自分の子どものためになればと子どもの治療や親の会の運動など、あたりまえのように障害児にかかわり一生懸命やってきたとのこと。そうしているうちに、他の兄弟姉妹にはいろいろ負担をかけてもそれとは気づかずにこれまで過ごしてきてしまった。母親として本当に申し訳なかったことが山のようにあるとのこと。
障害がある子どもを育てることはとても難しいことです。
子どもをたたいて教えるのではなく、言い聞かせて教えて教えて覚えてもらうことはいいことは分かっていても、こどもは自分の都合で人様にご迷惑をおかけすることがあります。
そんなときにはその瞬間をとらえて人前も気にすることなくしからねばならない時があるもの。
昔は「親の顔が見たい」「こんなことをするのは親のしつけがなっていないからだ」というのが世間の常識でした。
であればこそ、相手様へのお詫びと、自分の至らなさと、子どもを護るため、祈るような気持ちで徹底的にしかったお話など、母親の切なる願いが伝わってきて一緒に涙してお話をうかがいました。
軽度の人は軽度の人なりに、まわりの人たちにはご苦労があるもの。でも子どものころにしっかりと一般の人の中で暮らしていけるすべを身につけた人はもう親がいなくなっても立派に生きていけるでしょう。
しかることが大切というわけではありません。大切なのは本人のために努力することはなにごとも報われるということ。どんなに障害が重くとも、また、どんなに難しい問題を抱えた人であっても、本人に覚えてもらいたいという祈りが必要だと痛感しました。こんな年になってもいつもいろいろ教えられるものが多く、ほんとうに一生勉強です。
成年後見人制度による届け出が何とか終わりに近づいています。何度も市役所へ出かけた上、あれが足りない、これは違っているといわれ、年老いた親たちはどうやってやっているのか(自分がそうだから)心配になりました。
偶然一緒になったHさん、杖をついて、タクシーに乗ってやってこられたのに、やはり不足の書類があるとか。
「速達で送りますから。」
と言いながら、ご自分のドジをしきりに恥じ入っていらっしゃいました。
「いいえそうではありません。書類を整えるのはみんなあれもこれも勘違いがあるものです」というと、
「書類と毎日向き合っている奈々枝さんでもあるのですか」
と言われ、こんどは私が小さくなりました。年のせい、年のせい・・・。みんな年のせいにしておきましょう。
親として障害のある子を残して死ぬことはいろいろな意味で心残りがあるものです。本人もきっとさびしい思いをするでしょうし、面倒を変わってみてくれる兄弟もきっと大変だろうと思ってしまうのが親です。
でも、ひとりひとり生きてゆく、生かされてゆく中で、いろんなことがあって当然です。せめてもの親の気持ちは、生きていてよかったなあと思える日が多くありますように願ってやみません。後見人さんお願いします。
今日は野の花グループのメンバー3人がお掃除ボランティアに来てくださいました。ちょっと人数が少なかったのですが、結構活発に広い部屋を気持ちよくお掃除してくださいました。終わった頃はみんな心地よく、お顔が高潮して美しく見えました。
レジデンス日進のお母さんがそろいのエプロンを作ってくださったので、とてもかっこ良く、あとのお茶のひとときはいつもより話がはずみました。
お花ボラを終えたレジデンスのお母さんたちも、仲間に入って話題は「児童行動療育センターたけのこの里」のことに。
「行動療育ってどんなことをするんですか?」とボランティアのひとりが質問します。私は
「さあ、よくわからないけど、明日、久野先生が講演されるので、よくお聞きしようと思っている。」というと、
「私も是非片すみでいいからお聞きしたい」という人も出て、意識は盛り上がりました。
準備が整わないうちのスタートなので心配ですが、久野先生のブログを読むと、「短期日のうちの出発でも、名東福祉会のみなさんの誠心誠意準備した助力に感謝」とまで書いてくださって、恥じ入りました。
ボランティアの協力で講演会場が美しくなったことでお許し下さい。
妹の13回忌にあたるので、遅まきながら姪といちばん末の妹夫婦とお骨を納めに、伊勢路を走りました。山は蒼く、どこへ行っても桜が満開で存分に日本の春のよさを満喫してきました。
姪が私に気遣って、ホテルに糖尿病の人向きのお料理を注文しておいてくれたはずですが、出てきたのは見るも豪華な鯛の船盛りです。久しぶりのご馳走にはしたなくも食べるわ食べるわ・・・。おかげで夜中は「ウン ウーン」とうなって寝ていたそうで、お恥ずかしい限りでございます。
こうやって年をとってくると、日常生活が「食べれない」「歩けない」から始まって、すべて消極的になり、面倒になり、もうどうでもいいわ・・・となってボケてゆくのですね。
ボケない方法は、何事にも積極的に取組、粗食であること。同級生たちが認知症になってゆくのを見て、身震いするほど怖かったのですが、同じ同級生の中でもいつまでも若々しく、楽しい人生を送っている人もありますので、私も年を忘れて、なにごとにも前向きに日々を送りたいとおもっております。
ただ、私のような人間にとって楽しみといえば知的障害者と生活をともにすることくらい。いろんな会合に出席させていただいても、福祉以外のことはほとんどしゃべることもできないような人間ですので、やっぱりこの仕事をいただいていることには、つくづく感謝するしだいです。
名東福祉会では、本年度から新しく児童のための行動療育センターを日進市浅田町上ノ山でオープンします。また、その近くのメイ・グリーンにおいて新しい事業にも取り組もうとしています。一方、今までの事業をきちんと実施していくことも大切です。障害福祉はたいへんな危機にあり難しいことばかりですが、1日1日をこの人たちとともに歩んでいける幸せを感じる春です。
この子らを世の光に
先日、NHKで「この子らを世の光に」というタイトルで放送があったのを偶然見ることができました。
今、この記録を目にし、脳炎から重症心身障害になったわが子を抱えていろいろなお医者様を訪ねて歩き回った50年前の日々や糸賀先生、田村先生、池田太郎先生と出会った日々を改めて思い出すことができました。
「この子らを世の光に」
この言葉を知った私は、感動のあまりそのことばを人に伝えると、必ず「この子らに世の光を」と聞き間違えられました。
一般の人たちは、今でもそうかもしれませんが、恵まれない人たちに手を差し伸べるべきというように考えます。ですからことばは「この子らを世の光に」であっても「この子らに世の光を」と聞き違えてしまうのです。
糸賀先生は「この子らは世の光そのものだ」とおっしゃったのです。この子ら自身が、自ら光かがやくことができる社会をみんなでつくろうという考えです。自己決定とか権利擁護とかいろいろな難しいことばが生み出されましたが、私たちの国の知的障害者の福祉の出発点で、すでにそうしたことを糸賀先生や田村先生や池田先生たちは見通されていたのでした。
あさみどりの会の伊藤方文先生が糸賀先生を名古屋へお招きした折、私は、光栄にも運転手をさせていただいたり、講演会場では花束の贈呈をさせていただいたことがあります。そんなきっかけから、伊藤先生を通じ、田村先生や池田先生にもお近づきにならせていただきました。
後年、メイトウ・ワークスを建設する準備に入り、私は次男(現名東福祉会理事長)を連れて池田先生の信楽青年寮を尋ねたことがあります。
「土はええですなあ」
という言葉ではじまり、陶芸が知的障害者にとってどれだけよいものであるかを池田太郎先生は熱く熱く息子に話をされました。
名古屋に帰るとしばらくして息子に「知的障害者の父になってほしい」との手紙をいただきましたことは、生涯忘れないことになりました。
田村一二先生は茗荷村見聞録を書かれ、本や映画になりました。村中が床屋もかじやも八百屋もみんな知的障害の人たちが主役となって暮らしている村の話です。障害がある人がともに生きることができる社会のありようについて、私たちに強い影響を与えた本だったと思います。田村先生には名古屋手をつなぐ親の会の主催で千種区役所の講堂を借りて講演をお願いしたことがあります。
今、地域福祉計画が各市町村に義務付けられています。あたたかな現代茗荷村がいっぱいできるといいのですが、状況は厳しくなるばかりです。
私が名古屋の女性会館でボランティアについて講演をしたとき、ぜひ天白ワークスでボランティアをしたいといわれました。私は是非ということで来ていただいたのですが、その娘さんがなんと糸賀先生の姪御さんだったかお孫さんだったか糸賀先生の身内の方だったのです。そんな人がボランティアで天白ワークスで働いてくださったのにはほんとうに驚きました。
そこつものの私ですが、福祉の原点ともいうべき先生方をはじめ、多くの人に助けられてなんとかここまでやってくることができました。
かたくりの花
春になるとかたくりの花が可憐な姿を見せてくれます。名東福祉会がかって運営していた長野県大町の山の家の近くにもそれはみごとに一面に咲き、毎年カメラマンたちがいろいろな角度から写しているのを見かけたものでした。
レジデンス日進から近いところでは、香嵐渓の飯森山。樹間からさしてくる太陽の光を浴びて、ぜんざんがかたくりの花で埋め尽くされます。
毎年、時になると私の友人のOさんから「かたくりがそろそろ見ごろよ」と電話が入ります。私は時間調整をしてそそくさと出掛け、おしゃべりとかたくりの花に至福のひとときを過ごすのです。
そう、Oさんはもうこの世にいません。「かたくり咲いてるよ」と天国からさそってくださっても、もう一緒に見ることはできません。
Oさんはいつもいつも私を助けてくださいました。岐阜と愛知県の県境付近に工房をかまえ、羊を飼い、羊の毛刈り、綿のつむぎから始まり、染め、織りをしてみごとな布を生み出します。そしてその布は小袋や手さげになり、服になります。料理も上手で大町の山の家もお料理を担当してくださいました。絵も字も上手でした。彼女の生み出す世界に触れて、小規模作業所や授産施設の製品作りにどんなに手助けになったことか。
名古屋市千種区に「風ちい」というショップを出したことがあります。1990年ごろの話です。かなり古い昭和の民家を借り、改装してお店にしたのです。「風ちい」はOさんの発案で、福祉を中国風にもじってつけた名前。Oさんがその店に詰め、私が全国から選んできた障害者施設の製品を並べて売る店でした。テレビにも取り上げられたりして売上もそこそこありました。そのころにはたいへんすばらしい品質の製品を作り出す施設がいろいろとあり、風ちいに訪れる人にもとても喜ばれました。障害がある人も数は少ないのですがいっしょにお店で働きました。そんな「風ちい」ですが諸般の事情で家をお借りすることができなくなってしまい店を閉めることになってしまったという苦い経験もありました。
彼女亡き後、ご自分の工房が整理されて、機織り樹、糸つむぎ機などが展示され、作品もさりげなくかざってありました。お墓はその家の下、ご主人とともに眠っています。
きっと、そのまわりはかたくりの花ならぬ、白い小花が一面に咲いているにちがいありません。かたくりの花を見に行くより、Oさんのお墓参りにいきたいな。
私は「ゆめみるゆめこ」さん
名東福祉会のブログを読んでいると、今、福祉は大変なんだ・・・と実感するけれど、加藤さんの幸せそうな感じが伝わってきてうらやましいよと会社経営をしている友人が言います。天性の楽天家の私ですが、こんな私だってストレスがないわけでもなく、辛い事もいっぱいあります!と、反論するのはかえって墓穴を掘るようなものでした・・・。では今日は私のストレス解消法をご紹介しましょう。
その1 利用者の皆さんとお好み焼きやさんに招待されてみんなが「おいしい、おいしい!」といっぱい食べているときの笑顔をみているとき。
その2 ボランティアさんが施設に来てくださるとき
その3 利用者の家族の人が「我が家で咲きました」といって、お花を持ってきてくれるとき
こうして振り返ると、施設で利用者さんや家族の人たち、地域の人たちと触れ合っていることそのものが私のストレス解消法なんだということに気がつきました。
みなさんとのふれあいは、私の楽しみでありますが、施設に訪れた家族の人はもちろん不平や不満をおっしゃいます。福祉がたいへんな今、家族の不安はとても大きくなりました。そうした不安の広がりの中で、懸命に努力してくれている職員のみなさんや親や法人の役員さんたちがいることがほんとうにありがたいことです。幸せです。
今はストレスも大きいのですが、だからこそ新しい夢が生まれます。先日、友人とギャラリーめぐりをしたとき、「奈々枝さんも名東福祉会のみんなの作品を展示するギャラリー奈々枝を開設しなさいよ」といわれました。名称はいまいちだけど、「いいな」と思っちゃって、また、夢がふくらみました。やっぱり、私は「ゆめみるゆめこ」さんだ。
ああ、仕事を続けてきてよかったな
このごろ、福祉の世界は様変わりしています。
どうしてこの世界に入ったのか・・・を最近考え込むことが多くなりました。
長男が高熱を出し、そまま熱が下がらず国立病院入院に入院したことから始まったことがきっかけでした。
長男は入院してもなかなか高熱が下がらず、大発作を起こしましそのまま半身不随となりました。
重い障害をもったわけですが、なんとか生きてほしかったから・・・とそのころのことを思い出します。
中日新聞の「中日よろず相談」に駆け込み、そのころ相談者になっておられた名古屋大学の堀要先生とお会いしました。
先生は、これからは何かとこの人に相談するようにしなさいと、村上英治助教授を紹介してくださいました。
お二人とも亡くなられましたが、日本の自閉症治療やカウンセリング技術の発展に多大な貢献をされた先生です。
何も福祉の制度がなかった時代です。
そのころはリハビリテーションとはいいません。毎日、名古屋大学病院のマッサージに通い、ひたすら生きていてほしいと願う毎日でした。
そんなときに、何も表情に変化がなかったわが子がチラッと見せた目の輝きだけで私は生きていくことができるようになりました。
何十年もたった今でも、物言わない人が私を見るとき、心なしか目が変わります。
ものが言える人はいろいろ私に言いかけてくれます。そんなときが
「ああ、仕事を続けてきてよかったな」
と思うときです。
人のお世話をすることはたいへんです。一緒に歌を歌っているときですら気はゆるせません。
トイレ、薬と走り回ってもみんなありがとうとはいいません。
利用者の人たちに懸命の支援を行ったとしても、むくわれることはわずかです。
でも、そうであるからこそ、ほんの些細で見逃しそうな変化であっても、私たちに大きな喜びをあたえてくれるのだと思います。
そうした小さな積み重ねが今日の福祉を築いてきたのだと思います。
心臓手術をして7年。お医者さまは5年くらいで再手術が必要だとおっしゃっていました。もちろんあの手術を受ける気力も体力もありません。いつまでこの心臓はもってくれるのやら・・・。
生きていることはつくづくすばらしいことだと思います。
せっかく私たち日本の人たちみんなで築いてきた医療や福祉が灰じんに帰すことのないよう、祈るばかりです。
人を思いやる心こそ大切
暖かい日が続いたかと思うと、この2~3日、寒くて愛知でも風花が舞いました。
例年、風花の降る頃は桃の花も咲き始め、いつももうすぐ春だなあと感動したものですが今年あたりは何がなんだかわかりません。
友人にメールを送ったら早速、丁寧なお返事があり、写真まで何枚もありました。何と便利な世の中であろうと思います。
でも、老人にとってメールを頂くことはたいへん嬉しいものの、そうそうは送ることができません。じっとがまんして、また今度送りますと心の中でいいました。
世の中が移り変わり、それとともに福祉の様も変わります。
社会の仕組みがどんなに変わったとしても、人を思いやる心こそ大切にしたいものです。
しょうじょうばかま
昨日は春の嵐のような一日でしたが、一日明けて3月7日の今日はメイトウ・ワークス家族会の梅見バスハイク日。
少し風はありましたが、まあまあの日和でした。
役員さんの努力の企画にもかかわらず、参加者が意外に少なかったので卒業生のお母さんたち(他施設に移られた方)5名と私までさそっていただき、岐阜の梅林公園へ行ってまいりました。
梅の花は残念ながら満開を過ぎていましたが、とうふでんがくやおつぼさん(たにし)を頂きながら、それぞれの卒業生のその施設での様子や近況報告を聞きました。いずこも障害者自立支援法発表以来の様変わりにうなずいたり驚いたり。毎月10万円近い利用料を支払わなければならない方や、病院形態の施設に入って、親自身も助かっているという方や、5名5通りの状況でした。
他の施設のお話を聞きますと、施設ごとに利用料金は様々です。入浴料やテレビの利用料など細かい料金設定をしてなんとか不足ぎみの運営費を捻出するようにしていたり、寄附をお願いしたり、バザーを行ったりで料金設定や運営資金の集め方や考え方にそれぞれの法人ごと、施設ごとに違いがあります。
ほんとうに施設の利用料金が払えない家庭もありますし、学校給食を払わない親があるように、そうした負担は払うべきではないと考える親もいることを思うと、これからの福祉施策の難しさばかりが私に迫ってくるようで考え込みました。
帰りに「しょうじょうばかま」を見つけて、春の山草をつい買ってしまいましたが、せめてもの私のやすらぎです。
「ふれあい館あさひ」が日進市の東山にオープンしました。
高齢者や障害者もその親たちが気がねなく誰でもひとときを過ごしホッとできる場として、「ふれあい館あさひ」が日進市の東山にオープンしました。
主催者の木谷さんのご自宅の敷地内に新築されたものです。
玄関は坪庭になっていて、「おや?料亭かな?」と錯覚しそうな空間。中はモダンなリビングルーム。2回は和室です。
誰でもお茶を飲みながら楽しいひと時を過ごせそうです。
遅れ馳せながら、オープンのセレモニーの余韻が残る会場に到着すると結構沢山の人が来館されていました。
和気あいあいとした雰囲気の中で、お茶と手づくりのよもぎ大福や桜餅をいただきました。
90歳のお母さんが作られた根付をいただき、「これからどんなことをやっていきましょう」とみんなでわいわいがやがや。
親が自主的に集まり、街の中で生活を楽しみながら、それでいて自然に互いを支えあえる場をつくることはとても大切です。
今は障害福祉、高齢者福祉の制度が曲がり角に来ているとき。国や自治体の制度によるのではなく、こうした街の「草庵」がいつの時代に増して求められているのかもしれません。楽しい未来を想像して岐路につきました。
名東区福祉祭りは30年近く続けて来ましたが…
2月25日(日) まだ2月だというのに毎日暖かい日が続きます。
今日は名東区の福祉祭りということで、コロニーへ行く前に身体障害者スポーツセンターへ出かけました。
今回は驚くほど会場いっぱいの入場者です。来賓もずらりと並び、特に会場は若い親子の姿が大勢見えました。
ステージプログラムは多彩で、見るものを飽きさせません。特に、今年は上社幼稚園の和太鼓参加がありました。
「孫が和太鼓をたたく晴れ姿を一目見たいと父兄、おじいさん、おばあさんがたくさんかけつけてくださったので、こんなに大勢なのですよ。」
と大忙しの中で説明してくださったのは名東区社会福祉協議会の事務局長さん。子供たちはとてもかわいく、みんなでお上手な和太鼓に拍手を送りました。
福祉製品の販売コーナーではメイトウ・ワークス、はまなす、愛知視覚障害者援護促進協議会、杜の家かみさと工房、手をつなぐ育成会、TUTTIなど、福祉関係のお店がずらりと並び壮観
です。バザーにも沢山の出品があり大勢の人が大賑わい。
名東区福祉祭りは30年近く続けて来ましたが、やっぱり区民の中に浸透してゆくことは地道な活動の上に楽しい企画が必要だと痛感しました。
冬祭り
今を盛りに、梅の花があちこちで咲き誇っています。
上ノ山作業所の庭に、老木が二本、今、満開です。大きな梅の実が予想されます。そして、レジデンスの隣家の境あたりには、ふきのとうがいっぱい芽を出していました。それを沢山つんで、ふき味噌を作りました。上手に作れたらバザーに出そうと思ったのですが、料理酒を入れすぎたのか私の顔は真っ赤になってしまいました。何をやらせても下手なんです。
翌日の2月17日はレジデンス日進の冬祭り。その日は東京へ行くはずだったのですが所用があって欠席し、かわりに冬祭りに顔がだせることになりました。
午前中は地元の野方ばやしです。去年も披露していただいたのですが、一段と上手になられました。うちの利用者さんも少しやらせていただきみんな喜んでいました。
先生から、「レジデンスの皆さんにも演奏できるようにおしえてあげようか」と言っていただき、私はとても嬉しく思いました。
このあと、レジデンスの家族会のみなさんがつくった、トン汁やからあげを召し上がったり、バザーの品物を沢山買っていただいて、大変嬉しかったです。
午後からは、レジデンス日進のご近所のギター屋さんがギターの演奏に一家中で来てくださり、楽しい演奏をしてくださいました。
冬祭りは感謝でいっぱいです。
神戸育成会作業所に対する労働基準監督署の「指導」について
神戸市の東労働基準監督署が最低賃金法に違反しているなどとして、神戸市内の知的障害者作業所を改善指導すると読売新聞より報道された。
福祉作業所はこれまで労働関係法規の適用を除外されてきた。
仮にこうした作業所が時給100円であるがゆえに「違法」となってしまえば、全国に2300箇所以上ある福祉作業所のほとんどが存在し得ない。
読売新聞の記事によれば労働基準法の適用を除外される条件として
(1〉作業収入は必要経費を除き、障害者に全額工賃として支払う
〈2〉能力により工賃に差を設けない
〈3〉出欠や作業時間、作業量などは自由で、指導監督をしない――などを条件に、労働基準法の適用を除外される。
とある。
今回の指導が作業収入を工賃が適切に支払われていないことが主な事由であるならば指導があってしかるべきである。もともと福祉作業所の指導員については支援費によって支払われているため、作業によって得られた収益は正しく工賃として還元されなければならない。
しかし、能力により工賃に差を設けないことや、利用者に対して「指導監督」をすることによって最低賃金を適用されるならば、果たして福祉作業所で自立のための訓練はできるか疑問である。
作業所において生活全般に対する支援が行われていることや個々の利用者が作業所を利用しているメリットを度外視して、単に工賃だけで作業所の存在意義を論じてしまうと、結局、障害者が地域で生活する場がなくなってしまう危険性もある。
障害者自立支援法によって就労継続支援事業となったとしても、状況は変わらない。労働行政には障害者福祉施設における訓練や自立への意欲がそがれることがないよう労働行政と福祉行政の綿密な連携を望みたい。
知的障害者の居住系サービスが足りない
第1期の愛知県福祉計画が発表された。それにあわせ愛知県では障害者福祉に関して県民のパブリックコメントを求めている。
これからの障害福祉は地方自治体が主役。実際の障害者自立支援施策は愛知県が鍵を握るため、福祉計画をじっくりチェックすることが重要だ。
知的障害者のためのケアホーム・グループホーム設置計画を抜き出してみると次のようになる。
ケアホーム・グループホーム
手帳保持者 更生施設 平成18年 平成23年目標 増加
愛知県全体 36672人 2872人 1088人 2771人 1683人
名古屋市 11030人 478人 500人 1190人 712人
尾張東部 1777人 90人 52人 100人 48人
このように県レベルで数値目標が設定されたことは歓迎すべきことだ。ただ、障害者自立支援法における居住サービスは運営が苦しく、実際に目標を達成するには追加的な支援策も必要となる。愛知県の福祉計画では
1 改修費・初度備品費
2 敷金・礼金
3 費用の支援を検討する
を考えているようだがこれだけでは十分とはいえない。特にケアホーム運営費の支援や家賃補助についてはまだ具体的な対策は一切公表されていない。今後どういう政策が打たれていくのかに注目したい。
グループホームやケアホームの入居者にとって家賃負担は大きい。一方、入所施設を利用する場合には<家賃負担>という概念はない。この点で入所施設とケアホームは大きな利用格差となっており、障害者の地域生活移行を阻害する要因になっている。
入所施設とケアホームの家賃の不公平を解消するために、入所施設の自己負担を上げるというのは愚かしいことだ。入所施設は地域福祉全体をバックアップしている。入所施設を破壊することはひいては地域福祉システム全体を破壊することになりかねない。
3万6000人の知的障害者のうち、なんらかの居住サービスを利用している人は県全体で10%、名古屋は9%、尾張東部は8%となっている。実際には家族が知的障害者を支えていることになり、親なき後の不安は極めて大きいことが浮き彫りにされている。カナダのバンクーバーに訪問したとき、18歳を超えればほとんどの人が家族から離れて生活していると聞きいた。スウェーデンやデンマークはもちろんのこと、ドイツやUSAでもイギリスでも家族介護が90%という国はない。障害者自立支援法は自由な生活を謳歌できることを保障する法律であるべきだが、数値目標が達成されても諸外国との隔たりは依然として大きい。地域生活自立支援法は本来、家族介護支援法ではない。家族介護を前提とするのではなく福祉サービスで障害者の自由な生活を謳歌できる社会を実現すべきだ。
解決方法としてはケアホーム経営を魅力的にするしかない。例えば
1 地方自治体がケアホームの利用者に対し、家賃の支払いを助成する。
2 ケアホーム用アパートの設置者に対しては固定資産税を低く抑えたり、建築費の融資の返済に補助を行うなど家賃が低いレベルでもアパート経営が成立つような政策を打つ
3 公営住宅の利用を行い、低い家賃設定が可能な方法を導入する。
4 名古屋市の場合には知的障害者ケアホーム用アパートには容積率を緩和するなどの特例を設ける。
それぞれの自治体に合致した独自の支援策が求められている。名古屋市については公営住宅の活用を考えていると聞く。実際にどのような形でそれを行うのか期待したい。
障害がある人が多く集まる街は住みやすい街だ。これから高齢者も爆発的に増えていく。高齢者にも障害者にも魅力あるまちづくりに資するような障害者福祉政策が望まれる。
親亡き後
瀬戸からお母さん4名がグループホームの話を聞きたいとレジデンス日進においでになりました。いろいろ雑談をすすめていました。話を要約すると親亡き後、ひとりで生活してゆく姿を知りたいのが親心というもの。そのためには若いうちから親から離れた生活を体験して「親がいなくなったらこうやって暮らしてゆけばいいのだ」と親自身が納得することが必要。そうした場をどうやってつくったらいいのか・・というお気持ちと受け止めました。
今までも、同じ思いの人がいっぱいいて、施設や社会福祉法人に「入所施設に入れてください」、「グループホームをつくって下さい」とか「ケアホームをつくって」とお願いしていれば何とかできあがってきました。ところが最近の情勢は施設がなかなかできません。制度も予算も厳しくなり、少しずつ、地域で生活することが難しくなってきているような気がします。未来はけっしてばら色ではなく、自分たちがほしいと思う生活施設をつくるにはどうしたらよいかを真剣に考えないといけないと考えるようになってきたと思うのです。
養護学校を出て、理想の施設が満杯で、行き場がないと自分たちで小規模作業所をつくって頑張ってきたのと同じだなあと思いました。地域でがんばって生活してきた人たちですが、とうとう、親亡き後という現実が迫ってきて、終の棲家を探し始めたということです。どうするかという結論はでませんでしたが、「また来ます」といって帰ってゆかれました。
親亡き後といえば、今日、レジデンス日進のご利用者の方の親さんもなくなられました。みんなそんな年齢になりつつあります。
地域の中で本人がさりげなく暮らしてゆけるようになるために、ヘルパー制度ももっと充実してゆかねばなりませんね。いろいろ考えさせられることばかりです。
地域でさりげなく暮らしていくことにつながることを確信して
友人と一緒に春日井市で行われた「こころのバリアフリー市民のつどいin春日井」へ行ってきました。主催は社団法人愛知県社会福祉士会(尾張東ブロック)のみなさん。今回は、中部大学の学生さんを始めとして、地域のNPOのみなさんや大勢の市民の参加がありました。障害には身体障害、知的障害、精神障害がありますが、このつどいにはいろいろな障害がある人が集まり、障害者本人も自身の声でメッセージを発表されました。
寸劇を演じた中部大学の学生さんは、障害者問題をテーマにしたことは初めてのことだそうです。発表にあたって自分たちの知らない世界に触れ、最初はとまどいがあったとのこと。けれども障害がある人と交流し、いろいろな事を学ばれたといいます。ひとりひとりの感想のことばに新鮮さと一生懸命さがひびいてきて、思わず胸がジーンとなりました。
これからは、このようにすべての障害を持った人々を中心として一般の人々も参加して進めて行く行事が多くなってゆくのではないでしょうか。そうした活動が障害がある人が地域でさりげなく暮らしていくことにつながることを確信して、帰途につきました。親たちもちょっと考えを変えるべきです。時は音を立てて流れていきます。
冬まつり
1月26日、ボランティアを申し出てくださった方々が、5名の日進市民の方々がレジデンス日進の2階の地域交流室やその周辺や階段など丁寧にお掃除してくださいました。ほんの短い時間だったけど、てきぱきとこなされ部屋はとてもがすがしくなりました。
終了後、お部屋で雑談会をしました。みんなで「野の花会」と名づけ、毎月、第3金曜日を定例のお掃除会にすることになりました。とても明るい方々で、「屋上の草取りも楽しみだ」とか「大町の山の家に春になったら行こう」とか話題はきりがありません。
「こんな小さなことでも喜んでいただけるならとっても嬉しい。ありがとうございました。」
と、お礼をいったのは掃除をしてくださった側。お礼をいうのが反対です。それだけではなく天白ワークスのパンまで買って帰られました。
地域の人々がいろいろ出入りしていただき応援や感謝までされることは、私たちにとってはこれ以上の喜びはありません。来月2月17日(土)はレジデンス日進「冬まつり」。ミニバザーやこの地域の伝統の「野方ばやし」もありますのでぜひまたお出かけ下さい。
1月27日はレジデンス日進で遅ればせながら裕○さんの成人の祝いを行いました。今年成人を迎えた裕○さんに、あらかじめ「何が食べたい?」と聞いたら、「カツとから揚げ」とのこと。それならば、ということで、当日は職員手作りの「から揚げ成人式」が始まりました。
机やお鍋や道具を玄関横の中庭にならべ、ぼちぼち料理がはじまります。二階の窓から裕○さんのお父さんと眺めていたのですが、職員の動きの中にバカに包丁さばきの手馴れた人がいます。シェフのかっこうをしたもう一人の人と手順よく進めていきます。このふたり、れっきとした調理師免許を持った人で、前職はシェフだったのです。一方、炊事場のほうでは山田統括本部長がからあげと奮闘していました。
やがて、紺のスーツ姿の裕○さんがあらわれ、みんな拍手でむかえ、まっしろなレイを首にかけました。「おめでとう!!」とプレゼントの贈呈の後、カツやから揚げなどに挑戦。食べるわ、食べるわ。みんな「腹いっぱいで入らん」といいながら、このあとカレーやケーキもどんどん入ります。お父さんは写真をとったり、終始にこやかに眺めておられました。入所したころのお父さんの暗い顔(失礼!!)は消えていました。
花・ジャングルジムの講習会
1月19日、幼児グループの研修会がレジデンス日進の地域交流室で行われました。(主催 花・ジャングルジム)
朝早く、東京を立って来られた手塚直樹先生と青山和子先生の講演で、幼児期、児童期、思春期の問題をとてもわかりやすく、明快にお話くださった後、ひとりひとりの現在抱えている問題をお聞き下さり、それに対してそれぞれのお答えをいただきました。
10時から3時まであっと思う間に時間が過ぎて、お昼で帰らなければならない人はとても名残惜しく、泣いて感謝の思いを述べられ、つられてみんながいっせいに泣き出してしまいました。自分たちが迷いに迷って子育てをし、せいいっぱいがんばっているのを少し手をさしのべてさあこうやって子育てをしてみましょうと教えられた気がしたと思うのです。
「人との出会いがおだやかだとその子はおだやかに育つ」
「座って待つことを教えましょう」
等等心に残ったこどばをかみ締めていました。手塚先生、青山先生ありがとうございました。
■青山和子先生のご紹介
□日本女子大学社会福祉学科を卒業、当時数少なかった知的障害のある人の入所施設、現在の「総合福祉センター弘済学園」に専門職員として従事し、おおむね40年にわたって、知的障害のある幼児、児童、成人の支援に親身になって行動されてきました。
□総合福祉センター弘済学園は、幼児から成人まで一貫した支援を行っていますが、特に知的障害のある幼児と母親が3ヶ月にわたって入園し、早期療育の基本などを具体的に学び・経験していく、日本で最初の「母子入園」の責任者として、多くの実績を残されています。また、思春期のご本人やご家族についての支援には、とても経験が深い方です。
□昨年4月に、総合福祉センター弘済学園長を退任され、東京の麹町にある弘済会館総合相談室の療育相談担当をはじめとして、知的障害のある人やご家族の相談・支援にあたっています。
□現場の第一線で直接支援にあたってこられた方ですが、この間いくつかの大学で講座をもたれ、また「知的障害時・者の生活と援助」(一橋出版)、「ちえおくれの子どもの日常生活指導(3部作)」(学習研究社)等、多くの著書があります。
(手塚直樹)
■手塚直樹の自己紹介
□知的障害のある人をはじめとして、心身に障害のある人の職業や社会参加の分野で活動してきました。この間、わが国最初の知的障害者のモデル企業で多くの知的障害のある人と共に働いた経験をもっています。
また、鉄道弘済会本部社会福祉部で総合福祉センター弘済学園を担当したことなどが、私の知的障害のある人の支援の原点になっています。こうした関係から、青山和子先生とは40年来のお付き合いを願っています。
□その後大学の教員として、主に社会福祉専攻の学生の教育にあたってきました。現在は、新潟医療福祉大学の名誉教授です。
□現在、東京都町田市にある「社会福祉法人白峰福祉会」の理事長を努めています。知的障害者通所授産施設、通所更生施設、グループホーム、居宅介護事業等を運営しています。通所施設のご利用者は、重複障害や自閉症の人がとても多く、障害者程度区分では、区分6および5の人が3分の2以上を占めているという施設です。日々、ご利用者やご家族とのかかわりの中で、本当に多くのことを学び経験しています。
実践的なA型就労継続支援事業所のモデル
前回、このコーナーで企業が障害者を雇用した場合に、A型就労継続支援費を恒久的に企業に支払うことができれば就労は劇的に進むことを述べました。実は、今からでもこうしたことを実質的に行うことは可能です。
その方法は
(1)企業と提携した社会福祉法人やNPOが障害者の就労支援を目的とした事業所(以下事業所)をつくる。
(2)企業は事業の技術や知識を有する社員を事業所に出向もしくは人材派遣の形で派遣し、雇用した障害がある人の支援員とする。
(3)建物や機械は企業からレンタルを受け、事業所は、支援員の人材派遣費と設備のレンタル料を企業に支払う。
(4)提携した社会福祉法人やNPOは就労継続支援事業の管理者資格がある人をこの事業所に配置する。
(5)企業にとって必要な作業を下請けの形で事業所に継続的に提供し、請負料を事業所に支払う。
(6)事業所の管理者は支援費を自治体に請求する
というものです。
事業所は企業から受けた委託費の中から利用者に工賃を支払います。工賃の金額はおおむね35000円~70000円(月額)の間となるでしょう。
管理者は障害者福祉に関する専門的な知識を生かし、本人のニーズや障害の状況に応じ、本人に必要な訓練を行います。
こうしてみると、実質的に、企業内に支援費の支給を受けることができる障害者の多数雇用事業所を設立することと同じです。
ただ、こうした仕組みを悪用して不適切な事業所ができないとも限りません。そこで、企業が設立支援した事業所が障害者自立支援法に照らし合わせて適切なものであるかどうかを常に把握できるようにすることが必要です。また、事業所をアセスメントし、職場の改善作業ができるよう、企業と社会福祉法人の連携を深めることも必要になるかもしれません。そうしたシステム全体の管理を期待されているのが各福祉圏域に配置された障害者地域生活支援センターです。
現在は障害者自立支援法の問題点が明らかになった段階です。特に事業者は「激変緩和」に関心が向かっています。しかし自立支援法の本質は現在の授産施設のあり方を根本から変える法律です。障害者の自立が促進され、障害がある人がそうした事業所を選択するならばなんら問題はありません。しかし、現在の施設が解体され、障害がある人が路頭に迷うことがないようにしなければなりません。
そうならないために企業との提携を視野に入れた多様なモデルをつくっていくことが必要でしょう。障害者の就労にも地域社会の企業の発展にも社会福祉法人の発展にも結びつく新しい連携モデルづくりが求められます。
障害者雇用対策
今後の日中生活のあり方は就職ニーズが低い人から高い人まで多数の選択ができるようになります。
1 生活介護
2 就労継続支援(B型)
3 就労継続支援(A型)
4 就労移行支援
5 一般企業の就労
これまで、障害がある場合の学校卒業後の進路は、通所施設での福祉的就労か企業への就職かという選択だった。施設サービスを利用することには安定感があり生活の保障もあるため、就職をせず、施設を選択する人が多くなってしまいました。施設を利用した生活では
1 障害基礎年金が支給されるため、ある程度の生活保障がされる。
2 支援費制度により、ある程度の地域生活が保障される
3 (額は平均15000円と少ないが)工賃も支給される。
など、それなりに安心がもたらされます。一方、障害者側から見れば、企業での就労は危険がいっぱいです。
今回、障害者自立支援法で自己負担が発生するようになりました。自己負担を増やせば企業への就労が増えるかといえばそうはなりません。ただ単に、障害者の生活が苦しくなっただけです。企業への就労が促進される対策が急がれます。
企業への就労を増やすには、支援付き雇用を増やすことが肝心です。そのためには、障害者を雇用する企業側にも障害者雇用をすれば利がもたらされるような政策が必要でしょう。現在の障害者雇用対策は、障害者を雇用しなければ罰金を払う(大企業のみ)というネガティブなものであまりぱっとしません。多くの企業が罰金を払って障害者を雇用していないのです。
この問題を解決すべく、いろいろと法制度が検討されています。例えば、
(1)障害者雇用を目的とする子会社に企業が投資をする場合に、投資した資本金を損金に繰り入れることができるようにすること
(2)複数の企業が共同出資して障害者雇用を目的とする子会社を設立することができるようにすること
などです。子会社ですから、障害者雇用率に含めてカウントすることができます。
しかし、これだけでは障害者雇用率によってペナルティを与えられている大企業に限られます。障害者が一般企業へ就労することを促進するためにはもっと踏み込んだ対策が必要でしょう。例えば障害者を雇用した場合、A型就労継続支援の支援費単価に相当する雇用促進費を<恒久的に>企業に支払うのです。障害者の自己負担金はもちろん必要ありません。
そうなると、授産施設は大打撃となります。では、私たち社会福祉法人の人間はこうした対策に断固反対すべきかというとそうではありません。社会福祉法人も企業と連携して、そうした子会社を共同でつくったり、自らが起業して別会社をつくり、雇用の場を拡大すればよいのです。逆に、就労できない人に対する介護単価はもっと充実したものにできるようになります。
そうなれば社会福祉法人の使命は
1 障害者のケアマネジメント
2 重度の人に対するサービス
3 企業の障害者就労環境のコーディネート
4 障害者就労継続支援の管理業務委託
4 居住サービス
といったところに落ち着いていくでしょう。社会福祉法人はこうした政策が現実のものになるかもしれない5年後にむけて、対策を立てていかなければなりません。
温故知新
「温故知新」ということばがあります。これは「孔子」が論語として弟子たちと交わした問答や行動を記録したものの中に記載さされているものです。「温故知新」の意味は先人の人たちが受けてきた困難について知ることや、それを乗り越えてきた方法について知ること。それによって今の問題の解決や進むべき道が開かれるのではないかということです。
育成会の発足当時から携っている私は、そのいろいろな歴史の中から今日の福祉が築かれてきたと思っています。
養護学校がこれから変わろうとしています。そのとき、養護学校がなぜできたのかを知ることで変わるべき方向がはっきりするということがあります。授産施設が自立支援法で変わります。授産施設がどういうきっかけで、どんな必要性があってできたのかを知ることは、どうかわるべきかを見誤らないために大切なことだと思います。古いことを温めつつ、新しいことを考えましょう。
このところメイトウ・ワークス、レジデンズ日進、天白ワークスと新年会に連日呼んでいただいています。温故知新とはちょっと話がずれますが、今の名東福祉会の家族会は親子ほどの年代の差があります。お母様方どうしの会話になりますと、旧き時代を伝える年長のお母様方の苦労話、新風のような感覚が感じられる若い親さんの話、お互いがそれぞれの話に関心をもって聞き入ります。
私は傍で聞いていると、昔話はみんな懐かしく、そのころあちこち飛び回ったことが鮮やかに思い出されます。若いお母さんたちはショートステイを利用し、就労を考え、子どもを束縛せず、自分自身もたくましく生活をエンジョイされていることに感心します。
思えば、何も制度は整備されていなかったけれども、みなさんに助けていただき、苦労を楽しめた若い日を思い起こします。歴史の中でみんながそれぞれつながっているんだということを思い、温故知新を地で行くわが家族会のありようを見て、嬉しさを改めたしだいでした。
それにしても明るい家族会です。新年会では俳句の会や絵の会や旅行の会を再びやろう!!といわれました。自立支援法の苦難はどこへいったの? でもまあ、やっぱり明るく楽しくやるのが一番。嬉しかったです。さそってくれて。老人もいっしょに頑張りましょう。
福祉ビッグバンに備えて
2003年の6月に中村秀一氏の私的諮問機関である高齢者問題研究会の報告「2015年の高齢者福祉」の構想が発表されてから、これまで実に多くの改革が高齢者福祉の世界で進んできました。2015年は団塊の世代がすべて高齢者となる年です。
改革の内容を具体的に見ると、
1 小規模・多機能サービス拠点が増え在宅から利用する人を増やす。
2 高齢者施設は有料老人ホームか適合高齢者専用賃貸住宅などの特定施設に切り替わえる。
3 住居費・食費を利用者負担とし、個室化をはかり施設と居住との差をなくす。
4 医師の報酬は医療保険でまかない、医療サービスを外付け化する。
5 低所得者には利用料の配慮を行う。
ということになっています。より医療が必要な人は医療保険が適応される施設へ、医療ニーズが低い人は新しい形式の「住まい」に整理していくとされています。
こうした流れを受けて、建築会社や不動産開発会社は医療とドッキングした高齢者住宅をどんどん供給するようになるでしょう。またすでに医療法人の福祉への参入が解禁されたり、療養型病床の廃止が決まるなど、2015年に向けていろいろな制度が打ち出されています。実際に、住友林業や豊田通商などがそうした新しい高齢者の「住まい」を発表しています。また、コンビニや宅配便会社やセキュリティー会社がなんらかの形で弁当の宅配、安否確認、家事支援事業に参入すると思われます。そうした巨大なマーケットに向けて企業は動いているのです。
医療現場の改革もたいへんです。診療報酬が見直され、介護予防にシフトしていくでしょう。有償診療所・訪問介護・介護事業所・住宅型有料ホームなど、在宅福祉のための各種サービスの連携が進みます。ショッピングモールのように医療や介護や「住まい」が集積した施設が町の中に増えていくと思われます。
こうした高齢者福祉の世界の中に障害者福祉は介護保険で統合されるのです。昨年度導入された1割負担、食事負担もこの流れのなかにあります。もちろん新しい「住まい」は障害者も利用できます。身体障害者の人の中にはこうした「住まい」で暮らしてそのまま「在宅勤務」したり、町の障害者就労継続支援事業所へ通所する人がでてきてもおかしくありません。そうしたニーズの変化に合わせて、社会福祉法人に限らず、一般企業も就労継続支援に参入するかもしれません。障害者にとって、選択肢が増えるわけですからそれはそれで歓迎すべきことです。しかしその一方で既存の社会福祉法人は倒産するかもしれないのです。刻一刻とそうしたビッグバンに向けて世の中は動いているのです。
新しい時代に障害者福祉サービスを提供する法人が確固とした役割を担うために、私たちはどうしたらいいのかが問題です。入所型の障害者福祉施設はこれからますます重度者への対応が求められます。既存の通所の施設の多くは最終的には生活介護施設へとシフトしくことになるでしょう。重度者や自閉の人に対して良質なサービスが提供できる施設として生き残ることになると思います。その一方で障害者が能力に応じて働くことができる魅力ある職場を町の中に提供していくことも必要です。先ごろ軽減措置はうちだされましたが、厳しい状況にはかわりありません。
明けましておめでとうございます
国際社会が1981年に障害がある人の「完全参加と平等」に向けて努力することを宣言してから今年で27年目となります。長い時間が経過しましたが、障害がある人たちが社会に完全参加し、平等な権利を有しているとはいまだに言えません。
確かに、わたしたちの世代で「完全参加と平等」を成し遂げるのは容易ではありません。しかし、私たちが完全参加と平等は決して大きすぎる目標ではないと思います。その実体を突き詰めれば日々の生活のありようの問題にすぎないからです。
障害がある人が地域の人々との交流を少しでも増やすことができるようにするには?
障害がある人が地域の人々の役に立つ仕事を確保するには?
障害がある人が自分の住まいとして胸をはることができる生活空間をつくるには?
やりたい仕事を楽しみ、余暇を楽しみ、生活そのものを楽しむことができる-それが参加と平等の具体的な姿なのだと思います。
私たち施設職員は施設職員と利用者の関係ですから、利用者と共同生活を行っていますが、まったく同じように生活を楽しむことはできません。利用者と同じように生活を楽しむのが私たちの使命なのではなく、<利用者の楽しみの実現>を職業としています。利用者が生活を楽しんでいることを私たちの楽しみとするわけです。それが偕に(ともに)楽しみ、偕に生きるということの本質なのだと思います。
2007年は団塊の世代が大量に定年を迎える年となります。これは社会の中に自分がほんとうにやりたかった生き方を求める人が増え、働き方が変わり、ひいては福祉業界にも新しい労働力が供給されることを意味します。私はこうした団塊世代の人にとって、<やりたかったことができる魅力ある職場>として名東福祉会が注目されることを期待しています。そのためにも名東福祉会に多くの有益な経験や知識やキャリアが結集することができるよう、組織のあり方も含めて改革を続けていかなければと考えています。
明けましておめでとうございます。
明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ名東福祉会をご支援くださいますようお願い申し上げます。
昨年は障害者自立支援法にあけくれ、振り回された感があります。できるだけチャンスをとらえ、要望や陳情を繰り返し、具体的に訴え続けて参りました。12月に入ってやや修正への動きが見えてきたところですが、まだまだ気は抜けません。
新しい事業を起こすにあたっても、様々な壁があり、一つ一つ具体的に切り開いてゆかねばなりません。
発想を変えて、私たちは障害を持った人たちのそれぞれの障害に応じたよりよい暮らしができるように頑張りたいと思います。
年寄りはおとなしくしていたら・・・などとはいわないでください。心の中は燃えています。