バランスの良い現物給付と現金給付

本日の衆議院本会議で鳩山首相は「これからは現物給付と現金給付をバランスよく支給していく」と述べました。社会保障施策が現実的な対応になってきたと思われます。

民主党はこれまで、これからの社会保障施策について、現金給付を中心に政策をすすめると述べてきました。子ども手当てや農家の個別保障はその典型的なものです。

現金給付については、評論家が指摘しているように、その財源が確保できるのかという問題はもちろんなのですが、その前に、その施策が目的としている福祉サービスを利用者の立場に立って効果的に維持・発展できるかどうかについて問題があります。例えば子育て支援を目的として現金給付が行われた場合、実際に子育てに使用されるかどうかはわかりません。貯蓄や家のローンに回ることも考えられます。

現金給付は本来は、現金を受け取る人の生活の質を高めるためにある政策であるはずですが、現金給付を重視しすぎると、かえって地域福祉の衰退を招き、往々にして失敗をすることが多いと思います。例えば、ドイツでは高齢者福祉に現金給付が行われました。その結果、大幅に現金が高齢者の家庭にプールされ、結果的に高齢者福祉サービスが縮小し、地域福祉の衰退が起きました。日本でも高齢者福祉や障害者福祉でこうした方法がとられれば、より安く、より効率的な経営を行っている施設-つまりそれは大規模施設のことですが-に利用者は集中します。

つまり大規模な社会福祉法人は成長し、それとともに、地域の小規模な施設は衰退していきます。そうなると地域社会の多様性や連携による問題の解決力は失われ、「お金のかからないご近所の問題解決力」は失われてきます。そうなれば国全体としてみたとき、かえって高コストな福祉となりかねません。現金給付は一時的には利用者にとってありがたいのですが、しっかりと地域に根ざした現物の福祉サービスが存在しないとかえって悲惨な結果を招きかねないのです。

福祉の場合、やはり地域の中でバランスよく公共的なサービスの提供を行うことが必要になります。利用者の利便性を高め、いわゆる現物給付をバランス良く残すことが必須なのです。特に、遠く離れた大規模施設に行くのではなく、小さな地域社会の中で生活を維持することができる仕組みを構築する方法についてその方向性を指し示すことが必要となります。

今回の鳩山首相の「静かな方向転換」はとりあえずは良いことであると思います。

将来不安を払拭するためにも消費税の議論を

障害者福祉施設を安定した形で運営するためにはその財源を確保することが必要です。2006年の財務省の統計データを見ると、日本の国民所得に対する税と社会保険料負担の割合、いわゆる国民負担率は40.0%。でした。これはOECD加盟国29カ国中25位で、先進国の中でも低い方です。

財務省:国民負担率のグラフ

この中で主要な国を拾い出してみましょう。

デンマーク 70.9%(68.1%)
スウェーデン 66.2%(49.0)%
フランス 62.4%(37.8%)
イタリア 60.3%(42.1%)
フィンランド 59%(42.4%)
ニュージーランド 58.8%(57.1%)
ドイツ 52.0%(29.1%)
イギリス 49.2%(38.5%)
カナダ 44.4%(38.3%)
オーストラリア 44.1%(44.1%)
日本 40.0%(24.8%)
韓国 36.9%(28.5%)
アメリカ 34.7%(26.1%)
スイス 33.1%(25.1%)

特徴的なのはわが国の税負担率の低さです。わずか24.8%しかありません。よく「日本は税金の負担が高い」といわれますが、日本はOECD参加国29カ国の中で28位ですから、むしろ「日本は税が安い国」といえると思います。このデータは2006年のものですが、未曽有の金融危機で税収が落ち込みましたから、ひょっとすると、2010年のはOECD参加国の中で最低かもしれません。

税収入を確保するには消費税が優れていることは論を待ちません。消費税は法人税と比較して景気に左右される事が少なく、圧倒的に安定した収入となるからです。そこで、各国の消費税率を見てみましょう。

スウェーデン 25.00%(12%)
イタリア 20.00%(10%)
フランス 19.60%(5.5%)
オランダ 19.00%(6%)
イギリス 17.50%(0%)
中国 17.00%(17%)
ドイツ 16.00%(7%)
オーストラリア 10.00%(0%)
韓国 10.00%(10%)
アメリカ合衆国 8.25% 州ごとに異なる
カナダ 7.00%(0%)
日本 5.00%(5%)

()内は食糧品に対する消費税率です。

これを見るとわかるように、消費税についても日本は低い方です。

財政破綻は過去長い間放置されてきました。小泉構造改革においても、その後の政権においても、計画においてすら消費税を上げることを明言した内閣はありませんでした。これは安定した社会保障の仕組みを考える上で大問題です。責任ある政治を行うならば、消費税を上げることに言及しなければなりません。

消費税には逆進性があるといわれています。消費税を上げる場合、社会的な弱者に対する配慮、特に、障害者に対する配慮は絶対に必要です。世界各国の消費税のしくみを見ると、食料品に対する課税率がその他の商品とは別となっている場合が多いことがわかります。消費税率を上げる場合、食料品の消費税率については障害者に配慮する方式の導入をすることが必要です。

長期的展望に立って国の方向性を指し示すこと。それがなければ何時まで経っても社会福祉施設やそれを利用する障害者の不安は拭えません。消費税の論議はその始めの一歩だと思います。

半径500メートルの街づくり

半径500mの街づくりというコンセプトがある。高齢者になると行動範囲が狭くなり、移動できる距離に制限をうける。そこで、半径500m以内にスーパー、コンビニ、金融機関、学校、病院、介護サービスなど、生活に必要なものがすべて揃う街づくりを行おうという構想が生まれた。この構想は高齢者だけではなく、子どもや障害者も含め、多くの自治体の街づくり政策で取り上げられる。

名東区の人口は平成21年12月現在、160430人。人口密度は8252人。半径500mの円に直すとだいたい25ブロックほどに分けた街づくりをすると歩いて支援拠点に通える街のイメージに近づく。

名東区に障害がある人はどのくらいいるだろうか?

やや調査が古くなったが、平成17年度の障害者白書によれば人口1000人に対して
身体障害者は28人
知的障害者は4人
精神障害者は21人
という数字がある。白書では国民の5%はなんらかの障害を有しているとされている。

これを機械的に名東区に当てはめると、8000人となる。その上、高齢化が進んでいることと、法制度の改定等で障害者支援の対象の拡大もあり、支援の対象となる障害がある人は増え続けている。

先に述べたように、名東区内を25ブロックに分けて考えると1ブロックに320人の障害がある人を支援することが可能な拠点を設置する必要があるということになる。拠点は学校、幼稚園、保育園、病院、老人ホーム、障害者施設など公共施設はもちろん、障害がある人が働く場所やNPOや自治会組織のような非公式の組織でもいい。また建築会社や生活用品店、食料品店に至るまで「支える人の輪」ができるのが望ましい。

問題は、そうした事業所が出会い協力し合うことが難しいということだ。教育と福祉、医療と福祉、企業と福祉と聞いただけでいろいろ話がややこしそうだ。しかしながら
これらの支援組織が連携しあってこそ、障害がある人の生活は向上する。

25のブロックのひとつひとつの中に人のつながりがほしい。320人を協働で支えるようになって人の顔が見える支援ができる。現在、わずか3名のスタッフで、名東区8000人の相談支援にあたることになっている。もともと公的なしくみだけで街づくりを行うことは不可能なのだ。むしろこうした行政や法制度に頼るような話は、大きな話になればなるほど嘘話になりやすい。

考えてみれば、街づくりは公共サービスや制度を整備すれば済む話ではない。人と人が支えあうことが必然であるという街をつくるには、その街に済む人が共同意識を持つことからやり直さなければならない。それまでは
「いつも御世話になります」
「こちらこそ」
「先日はどうも」
「例のような話でまた御世話になりたいんですが」
「それはこちらとしてもありがたい事ですからご遠慮なく」
という人間の数を増やしていくしかない。道は遥か遠い。

知行合一

レジデンス日進は長期滞在用の個室10室とショートステイ用居室がある4ユニット構成の施設だ。レジデンス日進を建設するとき、私たちの法人はこの施設に、二つの通り名をつけてイメージを伝えようとした。
ひとつは「長期滞在型ホテル」。そして、もうひとつは「最後の砦」。
レスパイトケアを目的としていつでも誰でも楽しく利用できるようになることと、地域生活の最後の防衛線として生きていくことのふたつをその呼び名に託した。

レジデンス日進は、実際のところ、その両方の使われ方が行われる。楽しい方はいい。問題は厳しいほうだ。
成人期の知的障害者は、ときおり、親に対して爆発的な行動を起こすことがある。入所施設は、そうした人を一時的に受け入れることが必要になるときがある。

地域で厳しい行動の問題を抱えた人を受け入れることは、それだけで共同生活をする利用者の生活にリスクが増す。
だが、リスクがあるからといってそうした厳しい状況にある利用者の受け入れを拒否していれば、地域生活の最後の砦としての大儀がない。
たとえ大儀のためとはいえ、共同生活を行っている利用者を、一定の危険に晒すことは、それはそれで福祉の理念に背く可能性がある。難しい。

先日もそうしたことがあった。
通所施設のスタッフ、レジデンス日進のスタッフ、児童行動療育センターのスタッフが連携してこれにあたった。
いつ事故が起こるかもしれない状況で、気をゆるめることなく細かい対応にあたり、笑顔を絶やさず、受け入れた利用者のショートステイにあたってくださった。プロフェッショナルな行動だった。

使命を知っていても行動を起こさなければ知らないのと同じ。みなの知行合一の行動は賞賛に値する。
わたしたちの使命に従って、対応してくれたそれぞれの現場のすべてのスタッフと、ショートステイの利用者と生活をともにしてくださった利用者と、そのご家族に感謝申し上げたい。

障害者福祉は子ども手当てよりも軽く見られている

民主党は子ども手当ての財源を探すことができない。
民主党の平野官房長官は19日夕の記者会見で、子ども手当の財源について、地方自治体や企業にも負担を求めることを検討する考えを示したという。
民主党のマニフェストには全額国費と明記されていないため、地方財政に財源を求めることには正当性があると考えているらしい。
障害者福祉予算は地方財政が支えている部分が大きい。地方の財源が子ども手当てに使われれば、結果的に障害者福祉が抑制されることにつながる。

マニフェストは国民との契約だと言う。そんな契約をした覚えはないという人は多いだろう。民主党に投票した人の中にも。
障害者自立支援法を見直すことに希望をもって投票した人に対し、
「障害者福祉の予算を子ども手当てに回します。それがあなたがたの契約ですから」
と後からいわれたら、有権者は「騙された」となるのではないか。
選挙でマニフェストに掲げたからには実現しろ、というのではない。そもそもマニフェスト選挙がおかしいのだ。

自民党も巻き込まれたマニフェスト選挙は国民に美辞麗句を並べる甘言競争になった。
今後、野党もマスコミも、マニフェストを実現しているかどうかをチェックし、実現を迫ることになるが、そうなればさらに政策の矛盾が深まっていく。

40兆円(消費税に換算して25%)の不足財源は消費税を上げなければどこを探しても見つかるはずがない。
マニフェストの呪縛から解かれない限り、実際の福祉現場の混乱は止まらない。

地方分権と地域福祉

「地域主権」あるいは「地方分権」の議論が活発だ。地方分権が進めば、「地域福祉」が進むという人もいる。とんでもない誤解だ。

地域福祉は地方分権とはまったく別物の概念だ。地方分権が正面から国会の場にあがってきたのは、例の小泉構造改革の「三位一体の改革」からだった。
構造改革路線が転換した今でも、この地方分権に関する論議はいまだに止まっていない。

その代わり、地方が疲弊した原因は中央の官僚にあり、官僚をたたいて地方に行政の権限を渡せば国全体が良くなるという論理が展開されている。
しかし、中央の官僚が少なくなっても、地方の官僚が増えれば同じことだ。

北欧のような福祉がやれない理由のひとつに、日本の人口が取り上げられることがある。
例えばスウェーデンは人口900万人。スウェーデンは小さい国だが、ボルボなど世界的な企業がある。この財源を基にして高福祉を実現できているという論理だ。

こうした考え方はまったくおかしな考え方だということはすぐにわかる。
例えば、愛知県は700万人だから人口的にはスウェーデンとよく似たようなものだ。さらに愛知にはトヨタ、三菱など日本を代表するような企業がたくさんある。
そこで、愛知県が独自の福祉政策を実行する権限をもてばスウェーデンと同じように、高福祉の県にすることができるといっているのと等しい。

もしそんなことをすれば、三重県の人も岐阜県の人も愛知県に入ってくる。
逆に、企業はそんな県にいても税金ばかり払わなければいけないため、どの県に移動しても餌食になるだけだからどんどん外国に移転するだろう。

国としての地域間の財政の調整制度をしないで、地域ごとの福祉の競い合いをさせようとしても、それはできるはずがない。
財源がもともと少ない地方は、福祉をやろうにもやることができない。競争のために地方分権の「美名」の下で地域福祉を進めれば、破綻する県が続出するだろう。

自民党は道州制を提唱したが、財源の調整制度について問題が解決されたわけではなく、地方分権の規模を調整しただけで、矛盾はなんら解消されるわけではない。

そもそも、地方分権は小さな地域の中央集権だ。地域ごとに強烈な中央集権になればかえって行政を見て福祉をやることになる。
知事が変わるたびに変な障害者福祉政策が打たれたり、消滅したりではたまったものではない。

地域福祉は、人の生活現場のまわりに人が集まり、和をもって支援行動を継続することだ。
必要なことは国家観に根ざしたしっかりとした国としての方向性。
日本のどこへ行っても地域福祉の風土が担保される制度。
地方分権とはなあんにも関係がない。

国家観がしっかりしていないと地域福祉はできない。

医療と福祉の連携

癌の代替治療について、いろいろ知る機会を得ることになった。日本でもアメリカ式の告知で「あなたは余命後何ヶ月です」と告げる医師が増えた。ところが、日本の場合、アメリカのように患者を支える仕組みがないため、非常に強い不安を抱いたまま患者は医療から放り出されることが多い。

日本の医療費のうち、癌の治療にいったいいくら支払われているのか。特に抗がん剤の費用は高く、全体で5兆円から10兆円以上の金額になる。もちろん、有効であれば文句はいわない。ところが、日本で普通に行われている癌の標準治療である「切除・抗がん剤・放射線治療」の有効性については成績が悪く、様々な議論がある。最近では切除についてはできるだけ患者負担を減らすように技術が進歩してきたものの、抗がん剤の利用方法については問題が多いといわれている。放射線治療にしても最新鋭の機械は保険は適応されない。

医療機関で普通に行われいる「標準治療」は対症療法でしかない。癌を根本から治癒するようなアプローチは医療機関ではほとんど行われていないといってよい。
とはいえ体の中に常に発生してくる癌細胞を異物として排除する免疫機能の不全が原因であることは明らかだ。免疫機構が不全になる原因はストレスが多い生活やバランスを欠いた食生活など、問題がある生活習慣と密接に関係していることもわかっている。
わかっているのに医療でそこにアプローチしないのは、やりたくともそれができない医療制度となっているからに他ならない。

医療、福祉、教育は一体的に連携して個々の患者や障害者、高齢者や幼児など、支えられるべき人を支える仕組みが必要だ。
日本の医療や福祉はヨーロッパのものと比べても、技術的にも熱意も比べ物にならないくらい優れている。にもかかわらず、患者や障害者の安息が得られないのは、個々の機関がバラバラに動いていてそれぞれが機能不全に陥っているからではないか。

成果を出せない日本の癌の医療費はあまりにも使い方が偏りすぎてはいないか。もっと代替医療や患者ケアや福祉的アプローチに大切な医療費を使うべきではないのか。その一方で献身的に福祉に力を注いでくださる医師の人たちがいる。医療費の仕組みを見直し、地域医療の制度を変え、地域医療を支えてくれる医師たちが福祉事業の中でもっと動きやすいような仕組みができるのではないのか。

となりのブログで、自立支援協議会が名古屋市の施策につながらない点について問題提起されていたが、医療と福祉が手をつないで事業ができる仕組みについてもっと議論ができないかと思う。

和の幸う地域

***
わたしたちは「和の幸う国」をめざす。
日本書紀が今に伝える「憲法十七条」が「和を以って貴しとなす」の一文から始まるように、いにしえより、私たちは「和」の精神を重んじてきた。わたしたちは、これからも和を貴ぶ国であることを誓い、また、この精神のもと、和の先導者として国際平和の実現に力を尽くすことを誓う。
***

上記の文言はこの7月17日、日比谷公会堂で開かれた「日本よい国構想」のサマーフォーラムで読み上げられた理念だ。このフォーラムは先ごろ突然辞任表明した中田宏横浜市長、山田宏東京都杉並区長、中村松山市長が中心になって開催されたものだ。もちろん橋本大阪府知事とも連動している。この宣言から、中田横浜市長らが、聖徳太子の十七条憲法の精神を国家経営の理念として掲げていることは明白だ。

私たちの国が最も大切にしてきたものは「和」である。このことに異論を挟むものはいないだろう。地方自治や道州制の動き、あるいは政党の選択はさておき、私が極めて重要と思えるのはこうした「地方自治派」の首長が一応に「和」を貴び、「温故知新」や「日本の伝統」を前面に掲げていることである。これから日本の政治はどちらにせよ、変わっていかざるを得ない。しかし、どう変わろうとも、「和」を貴ぶ精神が廃れてしまうことだけは徹底的に防がなければならない。

もちろんフォーラムでは紹介されなかったが、十七条憲法の第六条では、
「六に曰く、悪を懲(こ)らし善を勧むる者は、古(いにしえ)の良き典なり。ここをもって、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず�(ただ)せ。それ諂(へつら)い許(あざむく)者は、国家を覆(くつがえ)す利器なり。人民を絶つ鋒剣(ほうけん)なり。また佞(かだ)み媚(こ)ぶるものは、上に対しては好みて下の過(あやまち)と説き、下に逢いては上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それ、これらの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本なり。」
とある。

和を貴ぶためには、積極的に和を乱すものと対峙し、これを懲らしめる事とある。面白い(?)のは、上のものに対しては部下のあやまちを説き、部下と会っているときには上のものの悪口をいうようなことは大乱の本であると説かれていることだ。残念ながら、こうした行動は、現在の日本の政治、学校、会社、福祉施設のいたるところで見られる行動だ。よい組織、よい地域をつくるためには、人の善を積極的に知らしめていくことが必要であると同時に、組織の中の小さな悪も見逃してはいけない。なかなか難しいことではあるが、「和」を成すために必要であることは論を待たない。

名東福祉会の利用者は、障害がありながら、賢明にその日を生き、地域の人々に少しでも喜んでいただけるよう、その人の能力に応じた仕事をしている。
パンを作っている天白ワークス、大人気の布製のひよこや陶器をつくっているメイトウ・ワークス、焼き菓子を作っているロト、そして先ごろオープンした障害者スポーツセンタ-内のカフェ・メイトなど、名東福祉会の
30年に及ぶ地域福祉の歴史の中で、徐々に地域の人たちの協力を得ながら、こうした事業が成り立ってきた。これは地域の方々の「和」の精神なくしてはなし得なかったことだと思う。

この小さな「善」を実践し、ひとりでも多くの地域の人たちに知らしめ続けることが、私たち支援者の使命であり、和のさきはふ地域づくりの第一歩である。

高齢者医療難民

北欧の障害者施設を見学すると、ほとんどの利用者が高齢者であることに驚く。考えてみれば高齢者は障害を抱えることが多く、あえて分ける必要はない。確かに、障害者と高齢者を分けるのではなく、融合してケアするような仕組みがあった方がいい。

高齢者医療と高齢者介護がまともに機能していなければ、障害者施設の充実はない。ところが、日本の高齢者医療は崩壊寸前だ。高齢者医療が崩壊すれば障害者福祉も崩壊する。

吉岡充先生と村上正泰氏の「高齢者医療難民 介護療養病床をなぜ潰すのか」(PHP新書,2008年12月)を読んだ。
吉岡氏は東京八王子上川病院理事長。NPO全国抑制廃止研究会理事長も兼務。
村上正泰氏は1974年生まれのもと財務省官僚。厚生労働省に出向し、平成18年度の医療改革で医療費適正化計画の枠組みを担当し、思うところあって財務省を退官。あの村上水軍で有名な故郷の因島に戻った。

この本を読むと、小泉構造改革当時、いかに医療改革の出発点の目標とはかけ離れた「改革」が断行されてしまったのかがわかる。
実態に合わない無謀な「医療区分Ⅰ」という患者の医療ニーズの重さの枠組みを導入し、医療費を抑制するやりかたは、障害程度区分で用いられた方法を連想する。
負担の押し付け合い。そのあげく、結果として負担が減ったのは公費、その中でも国庫だけ。この歪められた改革の構造は、障害者自立支援法とまったく同じだ。

高齢者や障害者をケアするはずの家族や地域社会が徹底的に破壊され続けてきた。私たち日本人は今そこを問われているのだと思う。
また「より良い生を生きる」は「よりよく死ぬ」ということでもある。尊厳のある生は、尊厳のある死ともつながる。私たちはどうやって生き、どうやって死ぬのかを正面から考えていかなければこの問題は終わらない。

家族と地域共同体の再構築・・・この難しい問題に新しい福祉の扉を開く鍵があるのではないか。障害者域福祉関係者には是非読んでいただきたい一冊だ。

世襲批判の批判

人間の行動は環境から影響を受けると同時に、環境に対しても影響をあたえる。子どもにとって、親は環境そのものであり、親の行動が子どもの行動に影響を与えると同時に、子どもの行動も親の行動に影響を与える。

また親の行動は、地域社会の成員にも影響を与える。親は障害がある子どもにとって最良の教師であると同時に、地域社会の人々にとってもモデルともリーダーともなりうる。

逆に、親は子どもの行動形成にとって最悪のモデルともなり、同時に子どもは親にとって最大の敵にもなりうる。親が子どもの福祉の破壊者になりうる可能性さえある。「子殺し」という言葉があるが、この豊かな日本で障害がある子どもを死に追いやってしまった事例は枚挙に暇がない。親は、自分自身がそのような存在になりかねないことを薄々知っていると思う。同時に、障害がある子どもの兄弟は、そうした不幸で恐ろしい事態にいつなるかわからない不安を抱えながら、そうした事態にならないよう踏みとどまりつつ日々奮闘する親の姿を見ながら成長していく。

日本の知的障害者福祉の充実に、親が果たしてきた役割を否定する人はいないだろう。また、そうした親の行動を理解して無言の協力をしてきた兄弟の存在もある。

知的障害者福祉においては、家族でなければ、自分自身の運命に対するあきらめと、暖かい支援に触れたときのありがたさと、こうすべきであるという信念を共存させることは難しいのではないか。
もちろん、家族以外であってもそうしたことができないというのではない。だが、家族であれば、収益や利権や名声とは無縁の世界で奉仕することができる可能性があり、親が望んだ夢を諦めと共に継承していくエネルギーもあると思う。

日本の知的障害者福祉は、法制化されてからを見ても60年近くになる。世代でいえば完全に2世代だ。そういえば、「世」という字ももともとは「三十」という意味だそうで、本来「世」は親子間の関係が横たわっている文字だ。知的障害者福祉の世代間の継承はすでに進んできている。そうした家族間の継承があって福祉はなんとかここまできた。

知的障害者福祉に限らず、親子間の文化の継承がなければ伝統は存在しない。これはヨーロッパにおいても同じだ。老舗、芸能、学問など、すべての伝統が親子の関係を除いては成り立ちえなかったはずだ。

今日本の政治は「世襲批判」に明け暮れている。なんという低レベルな論争なのかと思う。

官僚批判の批判

日本の公務員は各国と比較して多くない。平成18年8月の内閣府経済社会総合研究所による調査では、
「我が国の公務員数は、約538 万人、人口千人あたりでは、42 人となっている。(中略)イギリス98 人(フルタイム換算職員数78 人)、フランス96 人、アメリカ74 人、ドイツ70 人となっており、日本の公務員数の水準は相対的に低い」
とある。日本は「大きな政府」というのは嘘だといえる。

http://www.esri.go.jp/jp/archive/hou/hou030/hou021.html

日本は政治家が率先して公務員をたたき、公務員の給料をカットすれば人気が出る。だから選挙の度にそうしたパーフォーマンスが行われやすい。

過去に、公立保育園の給食の担当者が1000万円を超える給料をもらうという事例が紹介された。確かに民間人の相場からすれば非常識ともいえる高給だ。その一方で、ある国立大学法人の医学部の研究科の部長(いわゆる学部長クラス)の平成19年度の収入はいろいろ入れても1300万円だった。同クラスの学歴を持つ民間人の場合のおよそ2分の1から3分の1。一般に、高ポストの公務員は民間人に比べて相対的に収入が低いともいえる。ところが、政治家やマスコミは反感も買いにくいため、高いポストの官僚があたかも高収入を得ているように批判する。

官僚政治、官僚主導ということばはここ10年の間、随分聞かされてきた。しかし、よく考えてみれば、行政に不慣れな政治家が、部下である官僚なしで政治がやれるはずがない。

福祉の場合、官僚の存在が非常に重要だ。
自立支援協議会は、地域の収益性の低い事例について福祉の担い手である民間の社会福祉法人やNPO、株式会社の利害関係を調整する役割だ。自立支援協議会が地域の福祉サービス機関の利害調整に成功し、地域に良質なサービスが提供される体制を維持するためには、最終的に許認可権を持った官僚の存在がなければ難しい。

人気取りを目的とした官僚批判はやめてほしい。福祉サービスのさらなる荒廃につながりかねない。

障害者ケアマネジメント従事者指導者研修

国は障害者ケアマネジメント従事者指導者研修を行っている。この研修に参加するものはそれぞれの県の推薦を受けて国が主催する指導者研修に参加する。
その指導者研修に参加したものは、地域の研修を行い、学んだことを地域の障害者ケアマネジメント従事者に対して研修を行うことになっている。

今回、名東福祉会のこのブログのとなりの小島一郎の支援センター日記」のブログ主が参加することになった。

その際、
・都道府県研修実施上の課題と解決方法
・都道府県自立支援協議会と研修実施の関係
に関する事前報告レポートを提出することになっているという。たいへんな課題だ。

そこで、おこがましいが、せっかくの機会なので、福祉サービスの提供者側の人間として、国の障害者ケアマネジメント従事者研修のあり方について、ひとこと言わせてもらいたい。

私は、研修上の課題は、障害者ケアマネジメントの理念が従事者に浸透しにくいことであると思っている。障害者ケアマネジメントの基本理念は
1 ノーマライゼーション
2 自立
3 主体性・自己決定
4 個別支援
5 エンパワメントの促進
だ。これまで、誰もがどこかに違和感を覚えながら、それでも国の方針であったし、自分自身もそういうものだと思っても来た。ではあるが、そもそもこの基本理念が日本の社会に合致しているのか?を冷静に考えてみると、やはりどこかおかしい。

障害がある人のQOLは自立や、就労やそれにともなう収入の向上によって必ずしも高まらない。
障害者の主たる社会資源である施設を否定的に考えている。
生活の充実は帰属する集団の一員として擦りあわせを通じ、連帯感を形成していくときである。それが施設であっても構わない。
国から提供できるサービスが貧弱であっては計画の立てようがない。
本人の独善的な主張を押し通してもかならずしも本人の幸せの増大に結びつかない現実がある。

こうした違和感には目を瞑り、これまで、地域や家族の連帯感について障害者ケアマネジメントは意識的に避けてきた節がある。

一方で、今、日本では、グローバリズムや構造改革への強い批判が行われている。これまでグローバリズムがもたらした、日本の伝統や、地域や企業の結束が分断されてしまっていることに対して揺れ戻しが起きている。
これは別の言い方をすれば、ナショナリズムの台頭といってもいい。

私はナショナリズムが悪いといっているのではない。そもそも、どの国もいまやナショナリズムをもとに動いているし、グローバリズムももともとはアメリカのナショナリズムの具現化の装置ともいえる。そういう時代において、福祉もナショナリズムとは無縁であり、この国民的意識を避けて福祉資源を検討しても見当はずれになってしまうということを言いたいにすぎない。

ナショナリズムは、その成員の結束を高める方向に動く。そのため、成員の中に弱者がいれば必ずその人を救う方向に力が働く。そうでなければ、国家が霧散してしまうからだ。相互扶助や、自助の精神は、もともとナショナリズムとは矛盾しない。日本が手本としているといわれる北欧のスウェーデン、ノルウェー、デンマークはナショナリズムが強い国であるし、障害者ケアマネジメントの手本となっているイギリスはさらにナショナリズムが強い国家だ。そのナショナリズムを基盤としたうえで、徹底した地域の自助があり、その上に高福祉高負担社会が実現している。

障害者に対するサポートをマネジメントするという発想は必要だとしても、本来、大前提として私たちの国に、自助の精神がなければ、社会福祉の資源など瞬く間に枯渇する。

これまで社会福祉行政でナショナリズムを徹底的に否定し、グローバリズムを賛美し、アメリカ型の福祉を目指し、自由と個人主義に意識を集中してきたために、障害者のケアマネジメントの資源がどこにも見つけられないという矛盾に至ったとはいえないのだろうか。自助の精神や相互扶助の精神を「権利擁護」という概念で壊してしまったうえで、障害者ケアマネジメント従事者に、障害者をサポートするための社会資源を開発することが使命であることを「研修」してもどうにもならない。

ここでは、問題を解決するための手がかりは自助や相互扶助の精神を醸成するための地域に残された遺産を活用すること。それは地域の伝統的施設かもしれない。自立支援協議会ではなく、村の寄り合いや商店街の会合かもしれないし、町工場の勉強会や消防団なのかもしれない。そうした地域ごとの遺産を活用するための施設実践を重視し、家族会活動や地域活動や、それを側面から支えていく地方行政のあり方にあるのではないかとだけ述べておく。

セルフヘルプ

自立ということばは「セルフヘルプ」の翻訳として使用されてきたように思う。つまり、自立とは自分自身の努力とか能力による、自分自身の問題を解決するための行為というような意味だ。

日本では近年、「自立支援」という言葉ができた。
「障害者自立促進」ならまだわかる。
「障害者支援」でもいい。
ところが、障害者自立支援となるとこれは難しい。
ちょっと意地悪く自立(セルフヘルプ)の本来の字義を解釈してみれば、「人助けが必要な人を、人助けされなくてもいいように、人助けする」となる。自立支援がややこしくて意味がわかりにくいことばであることがわかる。

この事は教育的な場面や治療的な場面においてはわからないでもない。教育現場では、療育によって自立の可能性を広げていく目的があるからだ。だが日本の福祉現場で大切にしてきた「ともに生きる」という観点からは、これらの考え方には違和感があることは否めない。

いかに優秀な教育者や治療者が現われ、新しい教育技術が開発されたとしても、障害そのものはなくならない。むしろ、教育・治療活動の成果があがれば上がるほど、障害とともによりよい生き方ができる社会のあり方を求めていく「ともに生きる」という考え方がなおいっそう重要になる。

これは日本人が古くから大切にしてきた博愛と公益の精神でもある。もちろん昔の福祉が今より優れていたというのでない。ましてや昔に戻れと言うのでもない。

私たちの社会は本来、わざわざ自立支援というようなややこしい概念を必要としないような懐の深い社会であった。少なくとも明治時代には私たちの社会は家族が力を合わせ、友がお互いを信じあい、ひとりひとりが進んで博愛と公益を広めていくことが美徳であり、そうした徳のある行動を教育の場面で育もうとしてきた社会であった。

福祉の制度が時代の要請に合わせて調整と擦り合わせを繰り返し、変化していくことは必要である。しかし同時に、変えてはいけないものもある。ひとりひとりの成員が、もてる力を発揮しあい、それぞれができる範囲で、障害がある人とともに歩んでいくことの大切さはこれからも決して変わることはない。

福祉現場に生かせ、日本ものづくり思想

藤本隆宏氏は日本のもの造りが世界一であるのは、技にあるのではなく、その設計思想にあると主張した。設計思想はいわゆる「もの」にとどまらず、顧客にとっての付加価値をものに作りこみ、お客様を満足させる構想力や組織力であり、サービス業も含むという。組織に脈々と流れる「伝統」が日本のいい製品、いいサービス、いい仕事につながる。
なるほど、と思う。

昨今、福祉業界にも「キャリアパス」ということばが流行している。キャリアパスは個人の経歴のことだ。いろいろな福祉分野を渡り歩き、知識や技能を身につけ、キャリアを積み上げることによって福祉の技を磨き、自らを高める。そうしたキャリアを身につけた人が増えれば福祉サービスの質も増していくというというものだ。
その考え方は厚生労働省の「社会福祉法人の改革」でも持ち上げられたものだ。

だが、日本のものづくり思想からすれば、キャリアパスを求める風潮は、組織のサービス力を個人に還元してしまうもので、日本人がもっていたやさしさや慈しみの心、幸せになっていただくために身を尽くすという態度に水をかけることになるのではないか。

もちろん職員が資格をとる事を否定するものではないが、その前に組織としての「風土」を鍛え、質の高い福祉を目指す方がよほど日本の思想、ものづくり思想にあっている。

有資格者の配置に対する報酬の上積みなどの制度で資格取得に対するインセンティブをつけることは、キャリアパスを積み上げようとする風潮と結びつけば結局のところ組織をばらばらにしかねない。
組織がばらばらになれば、個々の組織が築いてきた福祉風土が弱くなりかねない。

福祉は組織力だと思う。協議会の仕事もそうした風土を地域ごとに強化、伝承していく作業に他ならない。
日本の伝統的なものづくり思想に立ち返り、障害者福祉を見直す時期が来ている。

保護帽

知的障害・身体障害がある兄の足腰の力が弱ってきた。もともと左半身に麻痺があり、単独歩行はかろうじてできる程度だったが、58歳になりだんだん体力も低下してきたのだろう。
そういえばこのところ、弟の自分も弱ってきたのでそれはそうだろうと思う。

愛知県コロニー養楽荘の担当の方からお電話をいただいた。たまたま会長(母)が急激な血圧低下があって愛知医大に緊急入院していたので、自分のところに電話がかかってきた。要件は、兄がよく転倒するようになったので防護帽を作りたいとのこと。母とは既に保護帽を作る方向で話は進んでいるから後は減免申請の手続きを代わりに願いたいということだった。
(より詳しく言えば、実際に購入する保護帽の1割ではなく、基準額の一割負担で済むということなので、実際にはもう少し負担額が大きくなる。)

自分はたまたま東京で処理しなければならない仕事が続いていた。そのために往復の費用がかかり、保護帽の制作費よりもはるかに高い交通費の支出が余儀なくされる。相手との時間の調整もあってなかなかたいへんであることを直感したので、たいへん不遜だとは思ったが、減免申請をしないということではだめなのかとお伺いした。とろこがそのように手続きが進んでいるので変更はできないということだった。

であれば担当の人にご迷惑を掛けてもいけない、早速名古屋に帰り、日進市の窓口へ行って減免申請をということになった。
ひとつの障害者用の補そう具をつくるにも、申請に担当施設職員、家族、申請を受け付ける役所、製作者が多大な労力をかけていて、実際には見えないコストがかかっているものだと痛感した次第だ。

しかし、この話、どこか腑に落ちないものがある。保護帽の1割負担の手続きは煩雑でみんなが頑張らなければならないという話に隠れてしまっているが、本当はもっと別のところに本質的な問題が潜んでいる。
それは利用者が保護帽が必要になることをできるだけ遅らせるようなケアについて検討することができないことだ。もちろんコロニーの問題というわけではない。私たち知的障害者施設全体の話だ。

転倒を防ぐことが目的ならば、杖の訓練は早期から考えられなかったのだろうか。いろんなタイプの杖があり、兄も使用できるものがあるかもしれない。

施設の設計や内装材の選択などで転倒しても簡単に怪我をしない施設を作ることができる。例えばレジデンス日進の場合、床材に桐を使用している。これは大変やわらかい木で傷が付きやすいという欠点がある反面、利用者の怪我を未然に防ぐことができる。もちろんマットなどと違い、やわらかすぎて歩行時にバランスを崩すこともなく、具合が良い。手足をできる限り使い、なおかつ失敗して転倒しても痛いが怪我をしない。

他にオムツの装着もお願いされた。兄は食事の後の移動に時間がかかり、トイレに着くまでに漏れてしまうことが多くなった。それでオムツの装着の話になった。これについては、オムツの装着を母が拒否したため、まだ装着にはいたっていない。近年、オムツの装着によって認知症が進むことがわかってきた。オムツをすることによってさらに介護度が高まってしまい、人的な資源が必要になってしまうというこもある。
保護帽について兄は特に問題はないと思うが、人によっては保護帽を被らない、引きちぎる、食べるというような不適応行動を誘発することもある。本人の障害から来るハンディを調整するために、様々な補そう具が考えられるが、その効果は総合的に見ないとわからないことが多い。

私たちの仕事は、限られた資源の中で知的障害者の人たちのQOLをできる限り高めることだ。QOLの向上のために支援計画は、支援者の人的な支援のコスト、施設の設備、毎日のデイリープログラム、補そう具、本人を支える家族の生活などを総合的に判断して選択・決定する必要がある。その意味では知的障害者のケアマネジメント相談者の要求水準は高齢者のそれと比較にならないほど高い。

ただ、この一連の話を知り得たら、生まれてはじめて保護帽を被った兄は何を思うのだろうか。
「帽子をかぶっとくわ」とたしなめられるような気がする。

派遣切りの問題も色あせて・・・

「派遣切り」の問題もそろそろ収束しつつある。あれだけ騒いだのに、マスコミは勝手なものだ。雇用全体の2.6%しかいない派遣社員の問題を改革論と結びつけて社会問題化することがもともとおかしい。レベルの低い単純化された議論の化けの皮がはがれてきたということか。

社会福祉施設における雇用の問題は人手不足。正社員として人材を求めれば募集が多くなるかというとそうはならない。一般雇用の3分の2に満たない給料しか払えない現実を改善することが先決だ。

有資格者に報酬加算の話が云々されているが社会福祉士の資格は基礎知識にすぎず、より高度な技術について国は評価しなければ安易な資格取得競争に陥るだけだ。そもそも、生活支援分野は多様な技能の組み合わせが必要で、机上の知識ではかる国家資格は優良な福祉サービスを提供するための尺度として妥当性がない。職員の報酬単価全体の底上げを望む。

社会福祉の現場は24時間体制。パート、日勤のみ、24時間交代制など、多様な勤務形態がある。それに伴い、多様な雇用形態を認めないと地域の人的資源が生かせない。当方人では優秀な専門職人材がパート人材だという事例もある。地域の多様な人的資源を有効に生かして初めて効率的で実りある福祉サービスが成り立つ。

名東福祉会はすでに正規・非正規を問わず、同一の評価基準と給与表に従った賃金体系に移行している。同一賃金・同一労働を目指し、正規・非正規の格差をなくし、最終的には全て正職員化することが目標だ。ただその際に、多様な雇用形態を認めることは維持する必要がある。多様な雇用形態は多様で豊かな社会福祉サービスを無理なく提供する上で必須の条件であるためだ。

もちろんがんばってもがんばらなくても同じ賃金ということではモラルハザードが起こる。がんばっている人に手厚い評価方法が必要なことはいうまでもない。

ただ、職員全員が納得できる体系をつくり、その体系にしたがって妥当な評価をすることは難しい。リアルな勤務体制に即して常に改善することが求められる。

今の日本の繁栄を築いてくれたのは高齢者の方です。私は日本を築いてくださった先人達の努力にも感謝し、先祖の墓参りにも行きますし、近くの神社にも参ります。

ただ、私たちの国の高齢者が高齢者医療費制度の問題で「高齢者に死ねというのか!」とシュプレヒコールを上げるのを見て、これまでの先人は国を築くためにそのような行動をとったのだろうかと考え込んでしまいます。
先人達は自らを犠牲にしてこの国の若い命を護るために戦ったのではないか、そうした千年を超えるの歴史の中で今の日本があるのではないかと思うのです。

一方で、厳しい金融情勢の中で、会社の資金繰りのためにある銀行に融資の相談に行けば、わずか数分の間に数組の高齢者のご夫婦が一人1000万円の札束を持ち、列をなして新規の口座を開設している光景に出くわします。もちろんそれが虎の子の財産を護るためのペイオフ対策であることはわかりますが・・・。

国会議員の1票の格差は最大5倍。地方に若い人が少なくなり、都市に若い人が集中していき若い人の一票の重みは薄れていきます。反面、地方の若い人が政治の不公平を是正するために選挙で投票しようにも、どうしても高齢者が有利な選挙結果になります。

日本の安心と安全のために未来を変えるには、高齢者福祉や高齢者医療に偏った資源配分を若い人たちの安心と安全と未来のために使うことなのではないでしょうか。

そうしたダイナミックな改革を行うことにより、高齢者の生活もまた高齢者の知恵が生かせる、生き生きとした暮らしになるのではないかと思うのです。

新体系への移行が進まない

新体系への移行がなかなか進んでいない。
ここにきて障害者自立支援法のゆくへに対する関心が障害者関係施設にも政治の世界にもともに薄れてしまっていることがある。
見直しの時期も迫っているため、いまいちど問題点を整理して前に進むべきだ。

新体系へ移行していかない理由として、問題点が大きく分けて3つある。
第一に人材の確保の問題だ。報酬単価が低く、経営に汲々としている状況で人材が集まらないのは当然だ。報酬を改善しなければならない。
第二に新体系へのインセンティブ不足が揚げられる。旧体系の方が経営が安定しているのでは誰も急いで移行しようとはしない。
第三に「地域生活相談事業」の遅れがある。
そもそも新体系は地域生活を基盤とする障害福祉のグランドデザインをもとに設計された制度だ。
これを実現するためには最適な地域生活をコーディネートするための相談支援のしくみが不可欠だ。

人材確保についてはまず障害関係の職員の平均給与を上げなければ難しいだろう。
厚生労働省が平成20年度全国の5000箇所の障害関係の事業所の給与を調査した。その結果、職員の平均給与は3385000円だった。
これを全職種の平均に近づけていくことが必要だ。
同時に、正職員と非正規職員そのもの壁をなくすこと、
職員の能力評価に基づいた給与体系の開発すること
職員のキャリアパスを形成するための研修制度や技術開発
など経営者の努力も必要だ。
もちろんそうした努力に正しい評価やインセンティブを地方自治体が行うことも必要となる。

新体系へのインセンティブを強化しなければならない。なかでも報酬単価設定の低さは決定的だ。とはいえ、すべての報酬をスライド式に上げるのではなく、地域移行に向けてメリハリのある報酬アップが望まれる。なかでも
1 重度障害のケアに対する報酬
2 療育型児童デイサービスに対する報酬
3 ホームヘルプやケアホームなどの生活支援に対する報酬
の改善は必須だ。

日割り報酬に対する批判がわれわれ施設経営者からも強いが、これはかえって堅持すべきではないか。新体系への移行を進めるためには障害者自身が自由に必要なサービスを選択する概念が必須であり、それはとりもなおさず日割り報酬に結びつく。
合わせてケアホームなどのハードとしての住まいの確保について抜本的な対策が望まれる。

就労支援の促進のためには未曾有の不景気の対策も合わせて福祉施設の農業連携を進める政策も必要だ。
鹿児島県の白鳩会では農業法人を設立して地域ぐるみの雇用と障害者就労支援の両立を実現している。この活動にヒントがある。
愛知県でも安城の施設「ハルナ」がハウスにおける農業作業の請負を行うそうだ。今後の展開に注目したい。

相談事業の遅れは致命的だ。
地域における拠点を整備し、自立支援協議会を育てる政策が必要だ。そのためには自治体直営の協議会ではなく、中立的な民間活力を育てることが大切だ。相談支援の充実のために、自治体の役割は正しい実践に対して正しい監査と評価を行うことだ。

これまで多くの犠牲を払って進めてきた障害者自立支援。ここで後退してこれまでの努力が水泡に帰してしまう愚は避けなければならない。

チャレンジ精神で乗り切ろう

2008年日本を襲った不景気の嵐に際して、私たち社会福祉現場の人間も変わっていく必要があると思います。
やはりここは「チャレンジ精神」が旺盛な社会福祉法人が新しい福祉の現場を発掘すべきだと。

2000年代に入って以来、社会福祉法人に欠如してきたのはチャレンジ精神だと思います。
昨年度愛知県の経営者会議の事務局をさせていただき、施設経営者はリスクと変化を嫌うことをつくづく感じました。
障害者自立支援法は数々の問題がありますが、その問題の解消策として改革の反動ともいえるような余計な制度が生まれていきます。そのために社会福祉がますます硬直化してしまいます。

現在、派遣社員の問題がクローズアップされていますが、社会福祉の場合には事情が異なります。社会福祉サービス、とりわけ障害者福祉サービスにおいてはそもそも雇用調整は必要ありません。
社会福祉現場では巷でいわれるような派遣切りや契約解除は起こらないのです。

問題は福祉施設の職員の中にある格差です。社会福祉法人分野の雇用の問題は正社員の特権化をやめて差別のない労働条件契約をつくっていくことでしょう。
24時間いつでもどこでも利用者のニーズに答えるためにはボランティア、パートタイマー、契約社員、正社員の垣根を払う事が必要だと思います。
もちろん絶対的な資金が不足しているのでそれを解消しなければなりませんが、その前に経営者の姿勢が問われているのだと思います。
硬直的な社会福祉法人の数を増やしても利用者は幸せになりませんし職員の待遇も改善されません。

景気対策にもなり、社会福祉対策にもなる案として有望なのはやはり住宅問題でしょう。
欧米に比べて狭い住居を大きな住居にするような政策を立ててほしいと思います。小規模共同住宅やSOHO住宅、多世代共同住宅を設置しやすい制度です。
福祉サービス機能を設置している住居には積極的にインセンティブをつけて良質で孤立しない住環境づくりを応援するのです。そうすれば障害者のケアホームの問題は自然に解決に向かいます。

明けましておめでとうございます

日本は不景気の時代に入り、しばらくの間は地方自治体の財政難から知的障害者福祉についても相当厳しい状況が続くといわれています。でも、裏返して考えれば、私たちのような消費生活中心の事業には有利に働きます。輸入エネルギーや資材の原価が大幅に下がって行き、それに伴い物価についても安定していくでしょう。

昨年、焼き菓子の店「ロト」ができました。とてもおいしいクッキーを作っています。今年はさらに充実した地域の活動が期待できそうです。

今年は新しいケアホームができます。なかなか感じのいいケアホームになります。
レジデンス日進で生活する人たちも入れ替わります。これまでと同様、既存の施設のイメージをどんどん打ち破って楽しい生活の場にしていけたらと願っています。
日中活動について、仕事と遊びの双方についていっそう充実したものにしていきたいと思います。
相談事業について、名古屋市の期待に応えられるようもう一段の工夫を凝らして行きたいと思います。
昨年、行動療育センターは大きな成果を上げました。今年は名古屋方面での展開の可能性について探って行きたいと思います。

名東福祉会は家族会と一体感があります。
この一体感は職員のがんばりと家族の協力があってこそ成り立つものです。

厳しい労働環境と待遇の中で名東福祉会の職員諸君はがんばってきました。
失敗しても臆せず改善しあい支えあう雰囲気、誰も見ていない場所でもゆったりじっくりと利用者に接していく心意気。
去っていった職員の背中を目で追いながら、目の前の利用者を見て自分は辞めることはできないと思いとどまり、介護を続ける勇気と使命観。そうした行動は私を含め、利用者の傍らで生活していない人の百のことば、千の主張に勝る価値があります。

願わくばこの厳しい社会情勢を100年に1度の<チャンス>と考え、職員諸君の心意気に応えることを今年の目標としたいと思います。

地域福祉を進めるためにはさらに改革を進めることが必要

2008年は改革が中途半端な状況でストップしてしまった年です。介護や障害者支援事業の改革を進め、新しい介護の市場をつくりここに人材が集まるようにしなければなりません。

ところが、社会福祉は前にも後ろにも進めない状況の中で停滞しています。そもそも社会福祉法人が行ってきた事業は今はNPOがあり、株式会社も参入できるようになっています。
多様な経営主体が参入し、それぞれの得意分野でサービスを競い合うことが社会福祉法人改革の目的でした。
現実には報酬単価の低下や補助金のカットが先行して実行され、新しい参入者が激減してしまいました。その上、株式会社が参入するから不正が起きるというニュアンスの報道があいつぎ、改革のイメージが故意に歪められたと思います。

改革の大きな要素として地域福祉があります。地域福祉を進めるに当たって、施設解体という誤った考え方ではない新しいパラダイムに基づく地域福祉の推進政策が必要です。

これからは地域の生活実態に合わせた地方行政ができるように、思い切って地方に任せる政策が必要だと思います。本来、人間の生活を単一のサービスでくくることはできません。都市と農村地や山間部、水産業の盛んなところでは生活様式も異なります。

地域福祉を進めるには地域に産業があり人が戻ってくる政策が必要です。
具体的には農業振興、水産業や山林業の振興などを行うことが必要です。
そうした生活の糧があって、地域の福祉サービスも生き生きとしたものに生まれ変わります。

地域の伝統を受け継ぐことは那(国)を誇りに思うことであり、
那(国)のために働くことは人のために働くことです。
人のためになることは生きがいを持てる豊かな人生を送ることであり、生きがいを持てる生活を応援することが福祉の本質です。

地域で株式会社、NPO、社会福祉法人がそれぞれの役割を地域の実情に合わせて協働できる環境の整備が望まれます。
そのためには、そうした多様な経営主体が参入できるビジネス環境が必須です。

現状では改革がストップしているために経営努力をしているとは思えないような法人も市場から退出していきません。
同時に株式会社やNPOの介護ビジネスは青息吐息で目の前にいる利用者のために、使命を忘れることなく懸命に介護を続けています。

人材不足も依然として深刻です。派遣労働者が8万5000人契約を打ち切られるということが話題になっていますが知的障害者の分野の応募状況は改善されていません。
やはり介護報酬や支援費報酬の少なさが問題です。魅力あるビジネスにするためには報酬単価を<抜本的に>見直していただきたいと思います。

「地域福祉を進めるためにはさらに改革を進めることが必要」
これが2008年の改革の揺れ戻し実験の結論だと思います。

司法判断をしなければならない時代

知的障害者の犯罪が起こりました。マスコミの注目度はやはり高いものがあります。

裁判員制度が始まります。すでに裁判員候補通知が送付されています。
日本の裁判員制度は世界でも特異な制度であるらしく、
1 量刑として死刑を含むこと
2 事実認定と量刑を含む制度
3 職業裁判員と選挙人名簿から無作為で選ばれる裁判員が司法判断を行う
など、いろいろな点で世界の制度とは異なっているそうです。

殺人事件ともなると非常に長い時間の審理が必要となります。
素人にもわかりやすく説明せねばならず、時間がさらにかかりそうです。
時間の長期化を避けるため、これまで職業裁判員が行っていた審理とは違い、いいかげんな審理にならないか心配です。
重大な事件になれば報道が裁判員の判断に大きく影響しそうです。裁判員の判断がこうした報道から自由でいられるか疑問です。

一般の人たちがこうした重大事件の審理に長く参加することに耐えられるかもありますが、
素人の私たちが今回のような知的障害者が犯した犯罪について、死刑という判断をすることの重みに耐えられるのかについても疑問があります。

人が人を裁きその結果に人の命がかかわる・・・これは重大な判断です。やはり職業裁判官だからこそ正しい判断ができるというものです。

裁判員が死刑の重圧を避けるため、どんな犯罪を犯したとしてもこうした被告に対して無罪という判決が増え、結果として知的障害者や精神障害者に対する不当な差別が増えてしまうのか、
あるいは、西洋の「魔女狩り」を連想させるような、とてつもなく暗い時代に入ってしまうのか。

誰かこの制度をとめてくれる政治家はいないのかと思います。

新たなビジネスモデルの構築を

この1年、世界は不景気の時代に入り、しばらくの間は地方自治体の財政難から知的障害者福祉についても危機的な状況が続くと思われます。
名東福祉会はこうした厳しい時代の中にあっても、利用者の満足の探求を続けていかなければなりません。

現在の障害者福祉は横並び、官主導で運営されていて、まさに「古いビジネスモデル」で経営が行われてきています。
こうした体制のもとで緊縮的な財政政策がとられると、それにつれて、最も末端の下請け作業を行っている授産施設などの障害者福祉サービスもジリジリと衰退してしまう傾向があります。
障害者雇用や就労支援などのしくみが崩壊してしまわないよう行政によるなんらかの手当てが必要であることはいうまでもありません。

その一方で、私たち社会福祉法人の経営についても、自ら変革していくことが必要です。
社会福祉法人が長期的に安定して利用者の満足を追求し、新たに地域のニーズを掘り起こして地域に根ざした組織として定着していくためには、
私たちが社会福祉法人の中核的な競争力、すなわちコア・コンピタンスを持てるように変わって行くことができるかどうかにかかっているといっても過言ではありません。

世界的な不況により、今後も数年間は国内の産業構造が大きく変貌していくことが予想されます。
企業は生き残りを掛け、雇用の調整など様々な分野で流動化が起こり、それにあわせて新しい競争力をもったサービスが創出されることが考えられます。
これらの中には、従来福祉的な分野に限定されて提供されてきたようなビジネスモデルも出てくることが予想されます。

いわゆる企業内に設けられる障害者就労支援センター、
高齢者ホームと障害者ホームの複合モデル、
障害者多数雇用農業法人モデル、
企業内保育所、
企業連合的なNPO組織が経営する障害児療育センター、
企業や自治体を顧客とした障害者多数雇用事業所、
など、新しい福祉モデルがその芽を吹き出しつつあります。これまでは実験的な試みであったものが、確固たるビジネスモデルとして福祉分野に進出してくるはずです。

また、そうしたビジネスを支える基礎技術の分野の進展も見逃せません。
介護ロボット産業の進化、
通信技術の進化と遠隔地の生活支援技術、
電気製品のインテリジェント化とネットワーク化による見守りシステム、
福祉事業・医療関連ソフトウェアの進化、
都市における自動車利用のしくみ
福祉ケア付きマンション
行動科学の進展
など、新しい福祉ビジネスモデルの創出を支える産業技術も育ちつつあります。

人の流動化、社会資源、基礎技術の進展により、これまで考えられなかったような新しい福祉ビジネスモデルが生まれて来るのではないかと予想しています。
肝心なのは世界的な経済の変動に連動して流動化した雇用を吸収しつつ、行き場を失った資金を集めて福祉ビジネスの進化が始まるのではないかと思われる点です。

私たち障害者福祉分野の人間は、この数年の間、障害者自立支援法ショックに翻弄されてきました。
新しい福祉ビジネスモデル創出へのムーブメントについては、障害者福祉分野では工賃倍増計画がいくつかの福祉大会で提案された程度で、ほとんど意識もされていないのが現実です。

私たち社会福祉法人は旧来からの古い福祉モデルにしがみついているわけにはいきません。すなわち横並び主義・要求行動至上主義・天の声待ちの体制から、
新技術に積極的に関心を持ち、
地域ニーズと利用者満足の追求のために、新たな展開を求めていくことが必要であると思います。

一時の現象でしかない規制強化への揺れ戻し施策や、福祉予算への一時的財政出動に気を緩めることなく、今後10年のスパンで社会福祉法人の改革を継続していくことが必要です。
厳しさが増す今こそ、新しい時代に向け、社会福祉法人の持てる力を結集していくことが必要なのではないでしょうか。

ノーマライゼーションは障害者を不幸にしていないか

近年、ノーマライゼーションや権利擁護についてこれまでとは全く異なった角度から批判が強くなってきているように思います。

特にインターネットの世界では一般の人たちからのノーマライゼーション批判が強くなってきています。なかには目に余るような汚い言葉使いで知的障害者をののしったり、不当な恐怖を煽るような書き込みが増えています。

ノーマライゼーションの考え方は障害者団体の「錦の御旗」でした。もちろん名東福祉会もこの理念を掲げて30年が経過しています。

ここで確認しておかなければならないことは、ノーマライゼーションは福祉サービスを低下させたり縮小したりすることではないということです。入所施設を解体することがノーマライゼーションであるかのように喧伝する人がいますがこれは誤りです。

本来のノーマライゼーションは、障害がある人に必要なケアを提供し、必要なサービスを自由に選択することができるようにすることです。知的障害がある人の教育や支援は、幼児期や学齢期に最適な方法であたれば、その後の人生のすべての問題が解決するわけではありません。むしろ、適応行動はまわりの人たちの継続的な働きかけによって改善されますが、不適切なかかわりかたで不適応行動も増えていくのが行動の原則です。支援や教育をなくすことが自立支援ではなく、適切に継続していくことが自立支援であり、継続的自立支援の行き着く先がノーマライゼーションなのです。

最近、知的障害がある男の殺人事件が報道されました。関係した方々の失意を思うと胸が痛むばかりです。

こうした事件が起こるたびに、知的障害のある人たちにサービスを提供しているものとしては、地域ケアのしくみが圧倒的に不足していることを感じます。名東区生活支援センターのリポートにもあるように、知的障害者が主体的に地域で生活し、明るく健やかに人生を送るためには、選択できる福祉サービスが不足しているのです。

地域福祉時代といいながら、一対一の母子関係に強く依存した閉じた生活を強いられる状況に追い込まれている事例が多いのです。行政の担当者や専門家は、セルフアドボカシー(自己権利擁護)というような難解な言葉を導入して、何もしない、何もできない状況を是とすることはあってはならないことです。

一方、現在の法曹界に広がる権利擁護運動についても首を傾げたくなるような事例もないわけではありません。障害者だから責任がないということについてもそれが果たして権利擁護といえるのかについても考えていかなければならないと思います。たとえ知的障害があっても同じ人間として<罰を受ける義務や権利>もあるのではないか、それが本来のノーマライゼーションではないかと思う事犯も多くあります。

私たちのように障害者福祉を実践する団体も、そろそろノーマライゼーションという言葉について考えなければならない時期に来ているのではないでしょうか。

今年はみかんが大豊作だそうだ。

岐阜県養老山脈のふもとにある南濃町はみかんの一大産地。山中、みかん色にきれいに染まっていて壮観だそうだが、このみかんがまったく収穫できない。

収穫しても費用がかかり価格があわないそうだ。農家の高齢化の問題もある。収穫できないみかんはそのまま完熟になって下に落ちたり、鳥がついばんだりしている。

こうしたみかんを施設の親の絵がみかん狩り観光も兼ねて収穫できないものだろうか。2トントラックをバスに併走させ、バスに乗った人たちが収穫する。名東福祉会の新しい焼き菓子の店「ロト」
ここには駐車場があるのでみかんを並べてバケツ1杯100円で販売できたら面白い。

農業にはこうした当たり年や不作の年がある。名東福祉会は都市と農村地帯の境にある。都市と農家を結ぶサービスとして日中活動を企画しやすい。こうした地の利を生かせば地域とのつながりも自然に深まるし、様々な意味で利用者の生活の質もあがるのではないだろうか。

愛知県版障害者差別禁止条例について

愛知県に障害者差別禁止条例制定の動きがあるそうです。障害者差別がなくなることはとてもよいことですが、この条例で本当に差別がなくなるのか心配です。
愛知県障害者差別禁止条例のヒヤリングがあるそうです。千葉県でも問題になっていたように、今後、愛知県福祉協会としてもこの条例の問題点について議論をしていただきたいと考えています。

問題点

1 障害の定義が千葉県と比べると具体的であるとしても、あいまいで、安易な障害の対象の拡大の恐れはないか

犯罪を犯しながら精神障害であるとする詭弁を弄して犯罪を逃れようとする犯罪者が増加しています。そうした人間にとってこの条例は追い風とならないでしょうか。

2 差別禁止よりも障害者自立支援の充実や改善が先ではないか

福祉サービスが充実し、様々な行き方の選択が出来る状態になってこそ障害を起因とする制限は少なくなります。
禁止による行動の制御よりも、社会全体が生活上の制限を少なくなるように制度の改善や福祉サービスの拡大をしていくことが本来の姿であり、障害者のQOLの向上に結びつく政策だと思います。

3 知的障害者の場合、実質的には福祉サービス提供時における差別が問題となる

条例には「労働者を雇用する場合において、本人が業務の本質的部分を遂行することが不可能な場合」は障害を理由に雇用を断ることができるとあります。
本質的部分は当然の事ながら雇用主が決定できます。従って知的障害者の雇用はこの条例では促進されることはありません。これは本家のADA(アメリカ障害者法)においても実証されていることです。
一方、知的障害者が実質的に生活の基盤としている福祉サービスの利用場面ではどれだけでも差別と認定することができます。
すなわち障害者差別禁止条例は一般社会に向けた差別禁止条例ではなく、実質的には福祉サービスに向けた差別禁止条例となっています。

4 あらゆる障害に対応するために財政的な裏づけが必要

もちろんあらゆる障害に対応するよう生活施設、日中活動施設の改善は必要だと考えます。
ところが障害者自立支援法では、福祉施設の収入が激減しています。これではあらゆる障害に対応したくともできない状況です。
障害者差別禁止条例が施行されならば、施設の改築、人件費の手当てなど障害者差別とならないような財政的な裏づけが必要だと考えます。

5 障害がある人側からの条例違反の訴えにより、愛知県の命令で福祉サービス提供を強制される等、条例の趣旨と異なった運用が定着しないか

措置の時代に逆戻りしかねない危惧があります。

6 差別が社会の中に潜在化しないか

いじめと同じで、差別禁止の運動が広がれば、それに連動して社会全般で差別が潜在化するのが常です。
ますます障害者が特別な存在と認識され、社会に対しかえって障害者に対する目に見えない恐怖を煽ってしまったり、本人には気付かない形で制限が広がったりしないか心配です。それこそ真の差別であると思います。

7 福祉サービスの利用者等にかえって権利や人権の侵害が起こりはしないか

条例では福祉サービスの利用を拒否したり制限したり条件を課することが差別となっています。
福祉サービスの利用について、もしあらゆる条件をつけないことになればいろいろな問題が生じる恐れがあります。
犯罪行為を繰り返す可能性がある人の福祉サービスの利用に、一切の条件をつけられない場合、かえって他の利用者の権利を侵害することにならないか心配です。

8 委員の公平性はどのように担保されるのか

差別があった場合に、委員会によって審議されるわけですが、どのように委員は選考されるのかが疑問です。
差別を受けたと感じれば差別があったという論理であり、福祉サービスの提供者をどうやって護っていけばいいのか不安です。
このことがただでさえサービスの提供者が減少している現在、ますます事業者の知的障害者福祉からの撤退を進めないか心配です。

9 ヒヤリング時に、祉協会の主張はどのような立場になるか

千葉県では特別支援学校の校長会が反対を行い、大幅に条例原案がマイルドなものになったときいています。
愛知県福祉協会としてはこの条例について上記の懸念があることを答申してほしいと思います。

10 ADAに立ち返って考えれば

この条例の最初の原案はアメリカ障害者法です。
ADAにおいても障害の範囲について範囲を拡大したい陣営と範囲を限定したい陣営との論争が10年間続いていると聞きます。
国際的にはADAが広がる流れであるとしても、そもそも日本の社会構造や伝統とは大きく異なる社会的な背景をもとにして成立した法令であり、世界的潮流ということで導入するのことは障害者の自立問題をより複雑化させるだけだと考えます。

罰により差別をなくすのではなく、障害がある人もそのまわりの人もともに障害による制限を取り除く主体的行動を賞賛することによって差別をなくす。それがあるべき社会の姿であると思います。

地域福祉は地域福祉計画へ概念が変わる

2030年には人口は13000万人から12000万人になる。
これは厚生労働省の社会保障審議会人口構成の変動に関する特別部会が平成18年に報告したデータだ。

老齢人口は32%(20%)
生産人口は59%(66%)
年少人口は10%(14%)
()内は2003年の数値。

3人にひとりが65歳以上となる。今から約20年後の日本の現実だ。

そうなると高齢者福祉の実態は都市型の福祉と農村部ではかなり形が異なっているだろう。
1東京都は人口増
2政令指定都市では人口減少と人口の流入が拮抗。
3農村部は人口減少
と予測されているからだ。

都市型ではマンション型の高齢者福祉があたりまえになっていると思われる。
リゾート地での生活は必要な生活資金は高いわりには利便性が悪い。
人口構成の推移から20年後には都市の中のマンションの中のケアホーム、グループホームが多くなっているはずだ。
現在、耐用年数の高層ビルが東京では林立している。これを少し改造するだけで都市の中にいくらでもケアホームができる。

高齢者福祉と障害者福祉は統合されそうでいてなかなか統合されにくい。その理由は
1障害者の場合には収入や財産が少なく高齢者のように入居の際に高額な契約料が支払えない。
2ケアの質が異なる
3制度の統合に対する異論が消えない
4障害者自立支援法で統合ができないことがほぼ明らかになった。
5介護度の判定方法について新しい判定基準を導入する動きもある。
いずれの方向も、障害者福祉と高齢者福祉の統合とは異なる方向性を示している。

そうしたとき、高価な高齢者ケアホームにも入れず、家族介護も見込めない知的障害者はどうすればいいのか
やはり地域の障害者福祉計画の中で進められる障害者福祉サービスが充実することを望むしかない。
1 高齢者と同等な質が確保された知的障害者ケアホームのしくみが用意されること。
(アホームへの入居契約料の補助、障害年金や企業内の授産活動による本人収入など)
2 現行の入所施設の枠組みをリニューアルしてもう一度入所施設中心の地域福祉を考えること。
が選択肢となる。

入居施設中心の地域福祉はおかしいという人もいるかもしれないが、入所施設と地域福祉は今や言語的に矛盾しない。
地域福祉を<脱施設>と捉える人は一部の過激な専門家だけで、地域福祉は「地域(自治体)が主体的に取り組む福祉計画のこと」という理解の仕方が一般化しているからだ。先に述べた人口動向の面からもこれからは地域のニーズに合わせて地域福祉を考えていかなければならないのは明らかなためこうした言葉の使い方は強化されていくはずだ。

私は本人の利益からも、実現の容易性も、地域福祉計画の立案のしやすさの面からも現行の障害者入所施設の継続的な改善を行って地域福祉の理念を実現することが有利だと思うのだが。

ロトオープン

2008年9月18日、名東福祉会に新しい事業拠点「ロト」ができました。
ロトというのは天白ワークスが発足したときにできたパン屋さんの名称です。イタリヤ語の「ロトンド」から借用したもので「まるい」という意味です。
地域の中で角張らずに、和して生きれたらという思いでつけられた名前です。

今回、名東福祉会の集いの場として利用者と家族と地域の知的障害者福祉に関心のある人たちの「和みの場」として機能するために委員会が設置されました。
ロトの運営にあたって、家族会からの有志の積極的な参加者あり、運営について活発に研究がされ、発足にいたったことは誠に喜ばしいことです。

知的障害者が幸せに生きるためには、障害の本質について正しい理解と正しい支援方法が必要です。
そのためには日々気付きを重ね、改善を繰り返す努力も必要になってきます。
ただ、知的障害者の幸せのための努力は、歯を食いしばって行うというよりは、いつも笑顔でリラックスしながら行うべきであると思います。
お客様にとっても日常的な支援がどういったものなのかを肌で感じることができ、自然に地域に支援運動として広がっていくことにつながると思います。

私は理事長として「楽しい場をつくること」をお願いしました。利用者の方にとっても支援員の人たちにとっても、ロトに訪れるお客様にとってもロトが楽しい場になることを祈念いたします。

1990年代からすでにノーマリゼーションに対する反省は始まっている。
ノーマルな生活様式により幸せになるというのは本質的な議論、すなわち自己決定の議論を欠落している。
アメリカでは1980年代、イギリスでは1990年代にシフトが始まったが、日本では障害者福祉の主要な理念はノーマリゼーションにとどまり、世界的な潮流から約20年の遅れとなっている。

エンパワメントは自ら決定する体験を積み、自ら選んだ生きがいを見出すように支援することだ。
典型的な障害者エンパワメント論では
1 障害は本人の悲劇ととらえるのではなく、社会的疎外ととらえる
2 障害の克服は本人の問題ととらえるのではなく、社会の課題としてとらえる
3 個人の治療にとどまるのではなく、社会に包含される環境作りを行う
4 治療優先からセルフヘルプを優先する
5 本人の経験と学習環境、学習体験の尊重
6 本人の適応状態を延ばすとともに社会の意識変革を重視する
というように障害をとらえている。

もう少しかみくだいた表現に変えると、
1 障害は地域の人たちの協力のしかたやふれあい方で問題が大きくかわります。
2 障害がある人たちとの交流の場を設けたり、障害がある人の役割ができるような場面を地域の中に作りましょう。
3 施設では意味のない訓練ではなく、小さなことでもよいので人の役に立つような仕事を行うことができるようにしましょう。
4 まわりの人が全部助けるのではなく、できるだけ本人が自分ができることを増やすように練習したり、本人が生活しやすいようになる工夫をみんなでしましょう。
5 これまでに経験したことや人との交流で学んだことが新しく本人の糧になり力となり、障害を克服するエネルギーになります。
6 本人ががんばる以上に、まわりの人たちの意識がかわるよう地域社会に対して訴えていきましょう。
ということだ。

自立支援の評価

障害者自立支援法はその理念において誤っているわけではない。問題は自立支援に必要な予算を十分につけられていないことにある。

支援法ができて名東福祉会では
1 支援センターでニーズアセスメントを地域で行うことができるようになった
2 地域の社会資源間の連携が進んだ
3 児童デイサービス制度を利用して「たけのこの家」で行動療育を行うことができるようになった
4 緊急時になんとか対応できる道が開かれた
5 現在利用している施設を継続利用しながら別に生活の場所を利用することができるようになった
6 補助金の規格に適合した施設を作るために、現場のニーズに合わない設備にお金を使わなくとも良くなった
などができるようになった。これだけの効果はやはり支援法がなければ達成できなかった。

障害者自立支援法の問題はこれまで
1 障害者本人負担の問題
2 障害程度区分判定の問題
3 激変緩和の問題
などの問題に焦点があてられてきた。安部内閣に続き福田内閣の支持率の低下に歯止めをかけるという政治的意図も手伝って、障害者自立支援法による激変を緩和する交渉が「成果」をあげてきたが、そのたびに支援法らしさが薄まり、結果的として自立支援法の本来の精神から離れ、措置の時代に回帰して行ったことは否めない。
この問題は関係者がもう少しシンプルに障害者福祉予算の問題として協議できることが必要だと思われる。

予算の協議がみのりあるものとなるためには、肝心の自立支援の効果をどうやって測定するのかという根本的な議論を避けるわけにはいかない。
従来の評価は従来型の施設サービスからより地域福祉とみなされるサービスに移行することに絶対的な価値を置くため、移行しないことが不当に評価が低くなる。
たとえそれが本人のQOLの向上にとって必要欠くべからざるものであっても入所施設利用を継続することは「悪」となる。

これは自立支援法を設計した段階で意図的に仕組まれている。一部の学者や施設経営者が施設解体をレポートし、入所施設を絶対悪のように述べることがそうしたからくりを正しいもののように錯覚させてしまう。

支援法ができてからの名東福祉会における6つの効果を述べたが、これらは施設の「移行」とは無縁だ。
本来、本人のQOLの向上は施設や働く場を「移行すること」とは無関係だ。QOLの向上は本来、本人のニーズをどれだけ実現できたかで問われなければならない。その意味では障害者本人もサービス提供者も地域社会も行政もともに本人のQOLの向上を認め合うことができる共通の「指標」を開発することが急がれるのだと考える。予算はそうした指標のもとに編成されるべきだ。

障害者自立支援法の見直し時期まで残された時間は後わずかしかない。