地方分権と地域福祉

「地域主権」あるいは「地方分権」の議論が活発だ。地方分権が進めば、「地域福祉」が進むという人もいる。とんでもない誤解だ。

地域福祉は地方分権とはまったく別物の概念だ。地方分権が正面から国会の場にあがってきたのは、例の小泉構造改革の「三位一体の改革」からだった。
構造改革路線が転換した今でも、この地方分権に関する論議はいまだに止まっていない。

その代わり、地方が疲弊した原因は中央の官僚にあり、官僚をたたいて地方に行政の権限を渡せば国全体が良くなるという論理が展開されている。
しかし、中央の官僚が少なくなっても、地方の官僚が増えれば同じことだ。

北欧のような福祉がやれない理由のひとつに、日本の人口が取り上げられることがある。
例えばスウェーデンは人口900万人。スウェーデンは小さい国だが、ボルボなど世界的な企業がある。この財源を基にして高福祉を実現できているという論理だ。

こうした考え方はまったくおかしな考え方だということはすぐにわかる。
例えば、愛知県は700万人だから人口的にはスウェーデンとよく似たようなものだ。さらに愛知にはトヨタ、三菱など日本を代表するような企業がたくさんある。
そこで、愛知県が独自の福祉政策を実行する権限をもてばスウェーデンと同じように、高福祉の県にすることができるといっているのと等しい。

もしそんなことをすれば、三重県の人も岐阜県の人も愛知県に入ってくる。
逆に、企業はそんな県にいても税金ばかり払わなければいけないため、どの県に移動しても餌食になるだけだからどんどん外国に移転するだろう。

国としての地域間の財政の調整制度をしないで、地域ごとの福祉の競い合いをさせようとしても、それはできるはずがない。
財源がもともと少ない地方は、福祉をやろうにもやることができない。競争のために地方分権の「美名」の下で地域福祉を進めれば、破綻する県が続出するだろう。

自民党は道州制を提唱したが、財源の調整制度について問題が解決されたわけではなく、地方分権の規模を調整しただけで、矛盾はなんら解消されるわけではない。

そもそも、地方分権は小さな地域の中央集権だ。地域ごとに強烈な中央集権になればかえって行政を見て福祉をやることになる。
知事が変わるたびに変な障害者福祉政策が打たれたり、消滅したりではたまったものではない。

地域福祉は、人の生活現場のまわりに人が集まり、和をもって支援行動を継続することだ。
必要なことは国家観に根ざしたしっかりとした国としての方向性。
日本のどこへ行っても地域福祉の風土が担保される制度。
地方分権とはなあんにも関係がない。

国家観がしっかりしていないと地域福祉はできない。

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