終戦が近くなった頃、私は当時通っていた女学校を繰り上げ卒業して看護婦学校に入りました。
ある日、和歌山に大空襲があり、私たち医療班は空襲で焼け出されたけが人を救援するため、真夜中に堺の看護婦学校の宿舎を出発しました。

夜明け近く和歌山市に到着すると、あたり一面火の海になったことがわかりました。
焼け落ちた家の柱からぶすぶすと煙があがり、黒こげになって倒れている人、焼けこげた馬がいます。

看護婦となったといっても16歳の私は心細く、怖くて足がすくみました。
私たちはとにかく市役所、学校を救護の拠点とすべく、5、6人の小さな班にわかれました。

学校に到着すると怪我をした人たちが次々に運び込まれてきます。
やけどで大きなボールのようにふくれあがってしまった紫色の顔をした人が私にか細い声で
「かんごふさん、み、水を・・・」
といいます。私はふるえる手で茶碗に水を入れ飲まそうとしました。
「何をしとるか!水を飲ませたらすぐに死んでしまう!」
上官が手に持っている茶碗を床にはたき落としました。
その人は結局次の日には苦しみながら死んでしまいました。

私が看護婦になったのは取り立てて使命感があったわけではありません。
当時、女学生たちは軍需工場に行くか、上の学校である大学に行くのかを選ばなければなりませんでした。

軍事工場に行くのがいやだった私は、はじめは師範学校に行きたいと
父に相談しました。学校の校長をしている叔父もおり、父は喜んでくれると思ったわけです。
ところが父は
「学校の先生にだけはなるな。学校の教師は子どもの育て方を知らない。そんな人にしたくはない」
といって許可してはくれません。そこで私は
「看護婦になりたい」
といいました。父はそれには大喜びでした。
「人に役立つ人間になれる。お国のために役立つ」
といい、私は堺の看護婦学校に進んだのでした。

看護学はほんとうにたくさんの勉強をしなければなりません。厳しい訓練もありました。私は生来、動きがのろく、お嬢さん育ちで身の回りのことは何もできません。

そんな厳しい寄宿舎生活でも私のことを何かと世話してくれる人がありました。あまり食べられない私は、世話をしてくださるお礼にといつもご飯を半分その人にあげました。その人はたいそう喜び終戦後まで何かと私のことを助けてくださいました。本当はドジで何かと失敗が多いのに、その人のおかげで看護学校で2番の成績を取ることができてしまったのです。

以来、今日までいつの日も私を助けてくださる人がいます。何をやってもドジな私を見るに見かねてか、どんなに危機が訪れても陰で応援してくれる人が不思議と現れるのです。今日、私が幸せでいられるのもほんとうにみなさんのおかげです。

2007年6月14日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝