地域福祉をすすめるのは地域の中に入り込んで心と心をありのままにさらけ出しあって付き合ってゆかねば本物は得られません。
そういう意味も含めて最近は障害福祉関係の地域のいろいろな催しにできる限り出席しています。

ある催しで障害者のお母さんとお話をいたしました。

そのお母さんがおっしゃるには、わが子に障害があることがわかったときから、自分の子どものためになればと子どもの治療や親の会の運動など、あたりまえのように障害児にかかわり一生懸命やってきたとのこと。そうしているうちに、他の兄弟姉妹にはいろいろ負担をかけてもそれとは気づかずにこれまで過ごしてきてしまった。母親として本当に申し訳なかったことが山のようにあるとのこと。

障害がある子どもを育てることはとても難しいことです。

子どもをたたいて教えるのではなく、言い聞かせて教えて教えて覚えてもらうことはいいことは分かっていても、こどもは自分の都合で人様にご迷惑をおかけすることがあります。

そんなときにはその瞬間をとらえて人前も気にすることなくしからねばならない時があるもの。
昔は「親の顔が見たい」「こんなことをするのは親のしつけがなっていないからだ」というのが世間の常識でした。
であればこそ、相手様へのお詫びと、自分の至らなさと、子どもを護るため、祈るような気持ちで徹底的にしかったお話など、母親の切なる願いが伝わってきて一緒に涙してお話をうかがいました。

軽度の人は軽度の人なりに、まわりの人たちにはご苦労があるもの。でも子どものころにしっかりと一般の人の中で暮らしていけるすべを身につけた人はもう親がいなくなっても立派に生きていけるでしょう。

しかることが大切というわけではありません。大切なのは本人のために努力することはなにごとも報われるということ。どんなに障害が重くとも、また、どんなに難しい問題を抱えた人であっても、本人に覚えてもらいたいという祈りが必要だと痛感しました。こんな年になってもいつもいろいろ教えられるものが多く、ほんとうに一生勉強です。

2007年4月25日 | カテゴリー : ななえ日記 | 投稿者 : 加藤 奈々枝