先日、NHKで「この子らを世の光に」というタイトルで放送があったのを偶然見ることができました。
今、この記録を目にし、脳炎から重症心身障害になったわが子を抱えていろいろなお医者様を訪ねて歩き回った50年前の日々や糸賀先生、田村先生、池田太郎先生と出会った日々を改めて思い出すことができました。
「この子らを世の光に」
この言葉を知った私は、感動のあまりそのことばを人に伝えると、必ず「この子らに世の光を」と聞き間違えられました。
一般の人たちは、今でもそうかもしれませんが、恵まれない人たちに手を差し伸べるべきというように考えます。ですからことばは「この子らを世の光に」であっても「この子らに世の光を」と聞き違えてしまうのです。
糸賀先生は「この子らは世の光そのものだ」とおっしゃったのです。この子ら自身が、自ら光かがやくことができる社会をみんなでつくろうという考えです。自己決定とか権利擁護とかいろいろな難しいことばが生み出されましたが、私たちの国の知的障害者の福祉の出発点で、すでにそうしたことを糸賀先生や田村先生や池田先生たちは見通されていたのでした。
あさみどりの会の伊藤方文先生が糸賀先生を名古屋へお招きした折、私は、光栄にも運転手をさせていただいたり、講演会場では花束の贈呈をさせていただいたことがあります。そんなきっかけから、伊藤先生を通じ、田村先生や池田先生にもお近づきにならせていただきました。
後年、メイトウ・ワークスを建設する準備に入り、私は次男(現名東福祉会理事長)を連れて池田先生の信楽青年寮を尋ねたことがあります。
「土はええですなあ」
という言葉ではじまり、陶芸が知的障害者にとってどれだけよいものであるかを池田太郎先生は熱く熱く息子に話をされました。
名古屋に帰るとしばらくして息子に「知的障害者の父になってほしい」との手紙をいただきましたことは、生涯忘れないことになりました。
田村一二先生は茗荷村見聞録を書かれ、本や映画になりました。村中が床屋もかじやも八百屋もみんな知的障害の人たちが主役となって暮らしている村の話です。障害がある人がともに生きることができる社会のありようについて、私たちに強い影響を与えた本だったと思います。田村先生には名古屋手をつなぐ親の会の主催で千種区役所の講堂を借りて講演をお願いしたことがあります。
今、地域福祉計画が各市町村に義務付けられています。あたたかな現代茗荷村がいっぱいできるといいのですが、状況は厳しくなるばかりです。
私が名古屋の女性会館でボランティアについて講演をしたとき、ぜひ天白ワークスでボランティアをしたいといわれました。私は是非ということで来ていただいたのですが、その娘さんがなんと糸賀先生の姪御さんだったかお孫さんだったか糸賀先生の身内の方だったのです。そんな人がボランティアで天白ワークスで働いてくださったのにはほんとうに驚きました。
そこつものの私ですが、福祉の原点ともいうべき先生方をはじめ、多くの人に助けられてなんとかここまでやってくることができました。