神武景気によって日本が復興を果たし、日本は活気のある時代を迎えました。でも知的障害者の施設はそうした世の中の流れからポツンと取り残され、誰も知らないところで手探りで運営が続けられていました。
障害者施設で働く職員は世の中の平均的な収入とは程遠く、みなボロボロの服を着て、それでも明るく懸命に知的障害者の介護をされていました。
愛知県ではじめてできた知的障害者施設、恵泉館の館長の故船橋玉耀先生と、愛知県の民生部の故大須賀先生に呼ばれたことがありました。
当時から大須賀さんは若手のやり手官僚として愛知県の厚生行政をひっぱりつつありました。大須賀さんは開口一番私に
「施設で今、何が必要だと思う?」
と聞かれました。
私は日ごろから職員の人たちの生活がたいへんだと思っていたので
「知的障害の人たちが幸せになるには、まずは職員の人たちが報われるようにしてほしい。」
と言いました。知的障害者の人は覚えるのに時間がかかります。彼らの幸せのためにはそれを支える人が気長にじっくりと取り組むことが必要です。そのためには職員が結婚したり、子どもをつくったりすることができないといけません。当時の職員にはそのようなあたりまえのことが程遠い夢だったのです。
大須賀さんは
「その話を知事の前でしゃべってほしい!」
と私にいいました。
後日、船橋先生と大須賀先生に連れられて故桑原知事にお会いしました。
日ごろ思っていたとおり、知的障害児の置かれている現状や福祉施設職員さんたちの生活のことを知事に伝えました。
桑原知事は涙を流さんばかりの表情になり、
「知らなかった。そういう現状があるんだねえ。何とかしましょう!」
とおっしゃってくださいました。
その後、大須賀先生と船橋先生は民間福祉施設の職員の待遇改善に向けて全国に先駆けて尽力され、有名な民間福祉施設運営改善費制度ができました。
この制度のおかげで愛知県では民間の福祉施設の運営が格段に楽になり、多くの障害がある人が安心して生活できるようになったと思います。また多くの優秀な人材が育ったのだと思います。
大須賀先生は後に愛知県の民生局長になり、その後、愛知県を退職されて県の民間福祉施設のリーダーとしてみんなをひっぱってくださいました。大須賀先生は亡くなられるまで何度も愛知県庁に乗り込み、みんなを代表して障害がある人たちの幸せのために尽力してくださいました。
船橋先生は愛護協会長として長年、愛知県の知的障害者施設をひっぱってくださいました。