終戦が近くなった頃、私は当時通っていた女学校を繰り上げ卒業して看護婦学校に入りました。
ある日、和歌山に大空襲があり、私たち医療班は空襲で焼け出されたけが人を救援するため、真夜中に堺の看護婦学校の宿舎を出発しました。
夜明け近く和歌山市に到着すると、あたり一面火の海になったことがわかりました。
焼け落ちた家の柱からぶすぶすと煙があがり、黒こげになって倒れている人、焼けこげた馬がいます。
看護婦となったといっても16歳の私は心細く、怖くて足がすくみました。
私たちはとにかく市役所、学校を救護の拠点とすべく、5、6人の小さな班にわかれました。
学校に到着すると怪我をした人たちが次々に運び込まれてきます。
やけどで大きなボールのようにふくれあがってしまった紫色の顔をした人が私にか細い声で
「かんごふさん、み、水を・・・」
といいます。私はふるえる手で茶碗に水を入れ飲まそうとしました。
「何をしとるか!水を飲ませたらすぐに死んでしまう!」
上官が手に持っている茶碗を床にはたき落としました。
その人は結局次の日には苦しみながら死んでしまいました。
私が看護婦になったのは取り立てて使命感があったわけではありません。
当時、女学生たちは軍需工場に行くか、上の学校である大学に行くのかを選ばなければなりませんでした。
軍事工場に行くのがいやだった私は、はじめは師範学校に行きたいと
父に相談しました。学校の校長をしている叔父もおり、父は喜んでくれると思ったわけです。
ところが父は
「学校の先生にだけはなるな。学校の教師は子どもの育て方を知らない。そんな人にしたくはない」
といって許可してはくれません。そこで私は
「看護婦になりたい」
といいました。父はそれには大喜びでした。
「人に役立つ人間になれる。お国のために役立つ」
といい、私は堺の看護婦学校に進んだのでした。
看護学はほんとうにたくさんの勉強をしなければなりません。厳しい訓練もありました。私は生来、動きがのろく、お嬢さん育ちで身の回りのことは何もできません。
そんな厳しい寄宿舎生活でも私のことを何かと世話してくれる人がありました。あまり食べられない私は、世話をしてくださるお礼にといつもご飯を半分その人にあげました。その人はたいそう喜び終戦後まで何かと私のことを助けてくださいました。本当はドジで何かと失敗が多いのに、その人のおかげで看護学校で2番の成績を取ることができてしまったのです。
以来、今日までいつの日も私を助けてくださる人がいます。何をやってもドジな私を見るに見かねてか、どんなに危機が訪れても陰で応援してくれる人が不思議と現れるのです。今日、私が幸せでいられるのもほんとうにみなさんのおかげです。
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5月の忙しかったことといったら・・・
毎日のように午前、午後、夜と続いてとうとう名古屋手をつなぐ育成会の大会の日、
限界が来て寝込んでしまいました。
でも、2~3日過ぎるともとに戻り、何食わぬ顔をして毎日多彩な行事をこなしています。
6月1日から11日までは松坂屋本館で第9回目のフロール展がありました。フロールは花の意。障害がある人たちが創作した作品の展覧会です。絵や陶芸などいろいろな分野の芸術作品が集まります。おおぜいの人が来場され、皆さん熱心に絵画や陶芸作品を鑑賞してくださいました。
会場にたっているとよく人にいろいろ聞かれます。
中日新聞の記者さんが私にいろいろ質問されました。
「生(いのち)の芸術ってどういう意味ですか」
フロール会理事長の伊藤高義先生によれば、フランスのある画家が障害者の作品を生の芸術(アール・ブリット)と呼び、「人間の純粋な欲求にもとづく美術」と讃えたそうですが、私にはそんな難しいことはわかりません。それで、「生きている輝きをオーラのように感じることができるので・・」というようなことを言ったら、フロール展実行委員加藤奈々枝さんのことばとしてそのまま新聞に載ってしまいました。みなさん、ほんとうにごめんなさい。
明けて12日はレジデンスのお母さん方に誘っていただいて可児郡の御嵩町にあるささゆりの原生地に行くことになりました。
中央道を行くことしばし、多治見で降りてしばらく行くと目的地に着きました。
車を降りてすぐ、あちこちに笹百合が見え始め、行くほどに登るほどに増えてきます。
緑の木々の間から差し込む日を受けて笹原に可憐な花が群生していました。
「何の花が一番好き?」と聞かれると、いつも「笹百合」と答えます。
笹百合は踏まれたりすると成長できなくなるといいます。
そのため、笹百合を守るためたくさんの地元のボランティアさんたちがこの花を守ってくださっているそうです。
特に、御岳町は北限に近いそうで笹百合を守っていくことが難しいそうです。
もう少し平均気温が上がると笹百合たちはなくなってしまうかもしれません。
車で行って笹百合にふれることができる幸せと、便利な世の中になったことで笹百合が生きにくくなってしまったこと・・・。
でも私はどんなに遠くてもどんなに山道でも「ささゆり」と聞いたらなんとしても行きたくなってしまうのです。
ボランティアさんと親しく話をし、ほうばすしを食べ岐路につきました。
久しぶりに地下鉄に乗りました。
女性専用口から入り、老人専用座席に座って、やおらあたりを見廻すと女性専用者は比較的すいています。
そのせいか、前の座席の若い女性がお化粧を始めました。
空いているとはいえ、人がいっぱいいるのにましてやまん前に私のようなものがいて、マジマジと見ています。
やおらまつ毛の化粧が始まりました。それあそれは丁寧に一本一本上向きになるようマスカラをつけるのです。
ゆれる電車の中でよくもまあ慣れた手つきで・・・。
新聞などでよくこの後継をけなしているのを読んで知ってはいましたが、実際にお目にかかることができました。
あたりをきょろきょろ観察している私の横は座席がひとり分空いていましたが、
そこへ音を立ててドカッと座った人があります。
見ると70歳前後かと見られる女性でした。
にこやかに私に話しかけてきます。
「私は毎日のようにこうやって地下鉄や市バスに乗って好きなところに出かけている。世の中はいろいろなことがあって楽しい。
今日は勉強に行く。歴史の話を聞かせてもらえる。」
と、こちらが聞きもしないのに一方的に話される。
私は心の中で、「老人が増え、ひまな人が増え、町に出かける人が増えてもお金を使わないのだ」と妙に感心しました。
さて、名古屋駅へ着くと新幹線まで送ってあげるといいます。
「階段を登るのたいへんでしょう。こう行くと楽です。」と手をとって導いてくれます。
私は少し用心深くなってきました。新幹線の入り口で別れようとすると、
「お昼ごはんどうするの?」
と聞かれる。
「時間があるので、うどんでも食べてホームへ行きますわ。」
というと、
「美味しいうどん屋さんがあるから一緒に行こう」
と言ってくれます。ままよ、なんでも経験しようと思って導かれるままに店に行きました。
ざるうどん550円を彼女が注文し、私はおろしうどんを注文しました。とても美味しいうどんでした。
食べながら彼女は一方的に自分のことばかり話して私には何も聞きませんでした。それが私は一番ありがたく、
ついうどんをおごる気持ちになってしまいました。
うどんを食べ終わると、また新幹線乗り場まで送ってくれました。
彼女の歳はちょうど私より10歳若く、亡き夫の年金で暮らし、勉強が大好きで筆記したノートも見せてくれました。
そして暇さえあれば町を歩いているとのこと。
こんな人が今はいっぱいいるのだ・・・と考えていると、
「今日はお年寄りのために役立って、こんな嬉しいことはない。おまけにうどんまでごちそうになって
私は今日は良い日でした。サヨウナラ」
といって別れて行きました。
私は私で老人席に座ったばっかりに、思わぬ体験をすることができ、何事も無く無事にお別れできてほっとした気分です。
そして、やりたいことがいっぱいあって、毎日忙しく動けるしあわせをかみしめました。
5月21日の午後6時より、レジデンス日進の見学と私の話を聞く会が催されました。
来所された皆さんはそれぞれ企業の社長さんばかり12名です。
ちょうど、名東福祉会の理事長と同年か少し若いかな・・・と思われる方々ばかりです。
始めに自己紹介を兼ねて福祉の道を歩いた40年の歩みをさせていただきました。
そして、メイトウワークスからはじまり、名東福祉会が経営する施設の生い立ちと歩みを話させていただきました。
最後に知的障害者の就労に関して具体的な経験の中から話をさせていただきました。
それから次々と質問を受けましたが、その中で名東福祉会の工賃が月2000円~5000円というと
「エッ! 月ですか?」
と念を押されました。企業の社長さんがたにとって驚きの額であり、その上利用料を払い、給食費を払うという説明に、
「施設はもっと払わなければいけないのでは」
とはみなさんおっしゃいませんでした。逆に、
「利用者の人たちはそれでも生き甲斐として通ってくるのか・・・」
と、想像外の話を聞き、驚きで一瞬絶句した後、かえって感動を呼んだようです。
我々は自分たちが何とか競争に勝ちたい、大企業になりたいと夢を描き努力をしてきたがそういう人たちが
自分たちとは違う夢をもって努力していることを始めて聞いて感動したとおっしゃってくださいました。
その中のおひとりは
「うちの会社でできることがあったら言ってください。無料でやらせていただきます。」
とまでみんなの前で言ってくださり、今度は私のほうが感動で絶句してしまいました。
へたな話でも一生懸命聞いてくださったことを心から感謝した集いでございました。
久しぶりに安曇野へ行ってきました。
新緑の野や山はどこへ行っても私たちを優しく迎えてくれました。
白雪がまぶしく残るアルプスの霊峰。
はなみずきやりんごの花が今を盛りと咲きそろい、満々と水をはったたんぼが逆さアルプスを映し出し、
私たちは名画の中を走るかのようでした。
おいしかったおそばや山菜やつけもの
温泉に心ゆくまでつかり、みんなと歓談し、もろもろの悩み事はすっかり忘れ、
美術館のはしごも年を忘れ、疲れを忘れさせてくれました。
この景色、この空気、私にとっては今日が最後かもしれませんが、
何も思い残すことはないくらい、私は安曇野に満たされました。
知的障害の人と共に生かされ、みなさんに支えていただいた幸せを
いまさらながらに深く感じることができた旅でした。
天白ワークスの南側に今は2階建ての作業所が建っていますが、そこは以前は畑として使っていました。
ボランティアのNさんが大根、じゃがいもをつくれば、私はハーブ類を植えて楽しみました。
農作業の知識もないのに苗を買ってきてはやたらと植える私は、この小さな畑で、あるときカボチャのおばけのように大きくなったものができました。
苗を買って植えたのに名前が風で飛んだのか、まるでどうやって食べるのかも分かりません。
みんなに「これなあに?」と聞いても、「知らない」「知らない」といいます。
本をかたっぱしから探して、やっとズッキーニとわかりました。これを煮てみようと包丁を入れたところ、刃がたちません。今度は柄でたたいてもびくともしません。
何だ?これ!???
料理の本をいろいろ調べてみてそれでわかったことはズッキーニは10cmから15cmくらいのときに食すものだとわかり、80cmくらいになったものは包丁の刃がたつはずもありません。
野菜類は食べごろや食べ方というものを大事にしなくてはなりません。
畑で栽培するものは料理を楽しむもの、色を楽しむもの、香りを楽しむもの、果ては薬草とするものなど楽しみは多彩で、その利用方法をよく知った上できちんと栽培しないととんだことになります。その後も、フェンネルをはびこらせてみなんに「魚と煮ると美味しいよ」と配ったことがありますが、どうも皆さんには敬遠されたみたいです。
私はハーブ熱がさめやりません。
そのころ、天白ワークスから少し離れた400坪ばかりの空き地をお借りしていました。福祉施設に土地を無償貸与して実際に福祉用に使用されれば土地の固定資産税がそれなりに免除されます。
もちろん貸主にとって収益はありませんが、福祉にも役に立つし固定資産税の負担もなくなるということでお貸しいただいたものです。
お借りした土地は利用者のみなさんが農作業をするための土地としてお借りしました。
ところが農作業はなかなかたいへんな作業です。そこでこの畑をハーブ園にしていこうとなりました。
家族会が中心になってラベンダー、ミント、レモンバームを植えました。そのころ経営していたイタリアンレストランの「あざみ亭」に朝摘みのハーブを届けるほどになりました。
その後、私は入院をしました。私の入院中に、長年畑を貸してくださっていた貸主の方が病院にまでわざわざ来られ、事情があって土地を返してほしいとお願いされました。もとより申し出があればいつでもお返しするお約束で借り上げた土地です。長年お借りしていたことを感謝してお返しすることになりました。
退院後、畑を見に行くとすでに整地されて駐車上になっており、家族会が植えたラベンダーはあとかたもなくありません。
「どこへ移植したの?」と聞くと
「ブルドーザーがならしていった」というのです。
私は言葉もありませんでした。3年くらい経っているラベンダーは大株になっているはずだし、鉢植えにして売れば1株3000円。最低50株としても・・・。
私は病気になったことを申し訳なく思うのみです。
そんな思いをしたので、家族会の方々も二度とハーブは作らないだろうと思ったのですが、さにあらず。レジデンス日進の屋上にはまたチョコチョコとハーブが芽を出しています。、またもや家族会の人がいろいろ手入れしてくださり、立派なラベンダーを始めとしていろいろとあります。やがてターシャ・チューダーの絵本の世界にあるような花園にして利用者のみなさんとガーデンパーティがやれるのを夢見ているところです。
久しぶりに屋上へ
今日は土曜日なので本来ならレジデンス日進の皆さんは自宅に帰る日です。しかし、家族会の主催で春祭りが行われることになり、朝から準備に追われているようでした。
私は久しぶりに屋上へ上がってみて、嬉しくなりました。
ぼつぼつバラの花が咲き始めていましたし、モツコウバラがたわわに黄色い花を付け始め、まだ、アーチ全体に花房がついているわけえはないのですが、みごとな花のつきように、満開の様子が想像されました。また、紫ランも色を見せ始め、2週間も回って屋上ガーデンを満喫いたしました。せっせと家族会のFさんとYさんが手入れをしてくださって、ハーブ、ラベンダーも見事です。
今日の春祭りのテーブルいっぱい花が活けてありました。春祭りは家族会の皆さんで掘ったたけの子は手みやげに、美味しい焼きそばやおにぎり、から揚げ等を賞味したあと、ゲームやいろいろ遊びもあって、ストレッチ体操をしました。でも体がついていきません。みんなはすごく楽しそうに嬉しそうにやっていました。利用者みんなの笑顔を見ているだけで幸せです。
地域福祉をすすめるのは地域の中に入り込んで心と心をありのままにさらけ出しあって付き合ってゆかねば本物は得られません。
そういう意味も含めて最近は障害福祉関係の地域のいろいろな催しにできる限り出席しています。
ある催しで障害者のお母さんとお話をいたしました。
そのお母さんがおっしゃるには、わが子に障害があることがわかったときから、自分の子どものためになればと子どもの治療や親の会の運動など、あたりまえのように障害児にかかわり一生懸命やってきたとのこと。そうしているうちに、他の兄弟姉妹にはいろいろ負担をかけてもそれとは気づかずにこれまで過ごしてきてしまった。母親として本当に申し訳なかったことが山のようにあるとのこと。
障害がある子どもを育てることはとても難しいことです。
子どもをたたいて教えるのではなく、言い聞かせて教えて教えて覚えてもらうことはいいことは分かっていても、こどもは自分の都合で人様にご迷惑をおかけすることがあります。
そんなときにはその瞬間をとらえて人前も気にすることなくしからねばならない時があるもの。
昔は「親の顔が見たい」「こんなことをするのは親のしつけがなっていないからだ」というのが世間の常識でした。
であればこそ、相手様へのお詫びと、自分の至らなさと、子どもを護るため、祈るような気持ちで徹底的にしかったお話など、母親の切なる願いが伝わってきて一緒に涙してお話をうかがいました。
軽度の人は軽度の人なりに、まわりの人たちにはご苦労があるもの。でも子どものころにしっかりと一般の人の中で暮らしていけるすべを身につけた人はもう親がいなくなっても立派に生きていけるでしょう。
しかることが大切というわけではありません。大切なのは本人のために努力することはなにごとも報われるということ。どんなに障害が重くとも、また、どんなに難しい問題を抱えた人であっても、本人に覚えてもらいたいという祈りが必要だと痛感しました。こんな年になってもいつもいろいろ教えられるものが多く、ほんとうに一生勉強です。
成年後見人制度による届け出が何とか終わりに近づいています。何度も市役所へ出かけた上、あれが足りない、これは違っているといわれ、年老いた親たちはどうやってやっているのか(自分がそうだから)心配になりました。
偶然一緒になったHさん、杖をついて、タクシーに乗ってやってこられたのに、やはり不足の書類があるとか。
「速達で送りますから。」
と言いながら、ご自分のドジをしきりに恥じ入っていらっしゃいました。
「いいえそうではありません。書類を整えるのはみんなあれもこれも勘違いがあるものです」というと、
「書類と毎日向き合っている奈々枝さんでもあるのですか」
と言われ、こんどは私が小さくなりました。年のせい、年のせい・・・。みんな年のせいにしておきましょう。
親として障害のある子を残して死ぬことはいろいろな意味で心残りがあるものです。本人もきっとさびしい思いをするでしょうし、面倒を変わってみてくれる兄弟もきっと大変だろうと思ってしまうのが親です。
でも、ひとりひとり生きてゆく、生かされてゆく中で、いろんなことがあって当然です。せめてもの親の気持ちは、生きていてよかったなあと思える日が多くありますように願ってやみません。後見人さんお願いします。
今日は野の花グループのメンバー3人がお掃除ボランティアに来てくださいました。ちょっと人数が少なかったのですが、結構活発に広い部屋を気持ちよくお掃除してくださいました。終わった頃はみんな心地よく、お顔が高潮して美しく見えました。
レジデンス日進のお母さんがそろいのエプロンを作ってくださったので、とてもかっこ良く、あとのお茶のひとときはいつもより話がはずみました。
お花ボラを終えたレジデンスのお母さんたちも、仲間に入って話題は「児童行動療育センターたけのこの里」のことに。
「行動療育ってどんなことをするんですか?」とボランティアのひとりが質問します。私は
「さあ、よくわからないけど、明日、久野先生が講演されるので、よくお聞きしようと思っている。」というと、
「私も是非片すみでいいからお聞きしたい」という人も出て、意識は盛り上がりました。
準備が整わないうちのスタートなので心配ですが、久野先生のブログを読むと、「短期日のうちの出発でも、名東福祉会のみなさんの誠心誠意準備した助力に感謝」とまで書いてくださって、恥じ入りました。
ボランティアの協力で講演会場が美しくなったことでお許し下さい。
妹の13回忌にあたるので、遅まきながら姪といちばん末の妹夫婦とお骨を納めに、伊勢路を走りました。山は蒼く、どこへ行っても桜が満開で存分に日本の春のよさを満喫してきました。
姪が私に気遣って、ホテルに糖尿病の人向きのお料理を注文しておいてくれたはずですが、出てきたのは見るも豪華な鯛の船盛りです。久しぶりのご馳走にはしたなくも食べるわ食べるわ・・・。おかげで夜中は「ウン ウーン」とうなって寝ていたそうで、お恥ずかしい限りでございます。
こうやって年をとってくると、日常生活が「食べれない」「歩けない」から始まって、すべて消極的になり、面倒になり、もうどうでもいいわ・・・となってボケてゆくのですね。
ボケない方法は、何事にも積極的に取組、粗食であること。同級生たちが認知症になってゆくのを見て、身震いするほど怖かったのですが、同じ同級生の中でもいつまでも若々しく、楽しい人生を送っている人もありますので、私も年を忘れて、なにごとにも前向きに日々を送りたいとおもっております。
ただ、私のような人間にとって楽しみといえば知的障害者と生活をともにすることくらい。いろんな会合に出席させていただいても、福祉以外のことはほとんどしゃべることもできないような人間ですので、やっぱりこの仕事をいただいていることには、つくづく感謝するしだいです。
名東福祉会では、本年度から新しく児童のための行動療育センターを日進市浅田町上ノ山でオープンします。また、その近くのメイ・グリーンにおいて新しい事業にも取り組もうとしています。一方、今までの事業をきちんと実施していくことも大切です。障害福祉はたいへんな危機にあり難しいことばかりですが、1日1日をこの人たちとともに歩んでいける幸せを感じる春です。
この子らを世の光に
先日、NHKで「この子らを世の光に」というタイトルで放送があったのを偶然見ることができました。
今、この記録を目にし、脳炎から重症心身障害になったわが子を抱えていろいろなお医者様を訪ねて歩き回った50年前の日々や糸賀先生、田村先生、池田太郎先生と出会った日々を改めて思い出すことができました。
「この子らを世の光に」
この言葉を知った私は、感動のあまりそのことばを人に伝えると、必ず「この子らに世の光を」と聞き間違えられました。
一般の人たちは、今でもそうかもしれませんが、恵まれない人たちに手を差し伸べるべきというように考えます。ですからことばは「この子らを世の光に」であっても「この子らに世の光を」と聞き違えてしまうのです。
糸賀先生は「この子らは世の光そのものだ」とおっしゃったのです。この子ら自身が、自ら光かがやくことができる社会をみんなでつくろうという考えです。自己決定とか権利擁護とかいろいろな難しいことばが生み出されましたが、私たちの国の知的障害者の福祉の出発点で、すでにそうしたことを糸賀先生や田村先生や池田先生たちは見通されていたのでした。
あさみどりの会の伊藤方文先生が糸賀先生を名古屋へお招きした折、私は、光栄にも運転手をさせていただいたり、講演会場では花束の贈呈をさせていただいたことがあります。そんなきっかけから、伊藤先生を通じ、田村先生や池田先生にもお近づきにならせていただきました。
後年、メイトウ・ワークスを建設する準備に入り、私は次男(現名東福祉会理事長)を連れて池田先生の信楽青年寮を尋ねたことがあります。
「土はええですなあ」
という言葉ではじまり、陶芸が知的障害者にとってどれだけよいものであるかを池田太郎先生は熱く熱く息子に話をされました。
名古屋に帰るとしばらくして息子に「知的障害者の父になってほしい」との手紙をいただきましたことは、生涯忘れないことになりました。
田村一二先生は茗荷村見聞録を書かれ、本や映画になりました。村中が床屋もかじやも八百屋もみんな知的障害の人たちが主役となって暮らしている村の話です。障害がある人がともに生きることができる社会のありようについて、私たちに強い影響を与えた本だったと思います。田村先生には名古屋手をつなぐ親の会の主催で千種区役所の講堂を借りて講演をお願いしたことがあります。
今、地域福祉計画が各市町村に義務付けられています。あたたかな現代茗荷村がいっぱいできるといいのですが、状況は厳しくなるばかりです。
私が名古屋の女性会館でボランティアについて講演をしたとき、ぜひ天白ワークスでボランティアをしたいといわれました。私は是非ということで来ていただいたのですが、その娘さんがなんと糸賀先生の姪御さんだったかお孫さんだったか糸賀先生の身内の方だったのです。そんな人がボランティアで天白ワークスで働いてくださったのにはほんとうに驚きました。
そこつものの私ですが、福祉の原点ともいうべき先生方をはじめ、多くの人に助けられてなんとかここまでやってくることができました。
かたくりの花
春になるとかたくりの花が可憐な姿を見せてくれます。名東福祉会がかって運営していた長野県大町の山の家の近くにもそれはみごとに一面に咲き、毎年カメラマンたちがいろいろな角度から写しているのを見かけたものでした。
レジデンス日進から近いところでは、香嵐渓の飯森山。樹間からさしてくる太陽の光を浴びて、ぜんざんがかたくりの花で埋め尽くされます。
毎年、時になると私の友人のOさんから「かたくりがそろそろ見ごろよ」と電話が入ります。私は時間調整をしてそそくさと出掛け、おしゃべりとかたくりの花に至福のひとときを過ごすのです。
そう、Oさんはもうこの世にいません。「かたくり咲いてるよ」と天国からさそってくださっても、もう一緒に見ることはできません。
Oさんはいつもいつも私を助けてくださいました。岐阜と愛知県の県境付近に工房をかまえ、羊を飼い、羊の毛刈り、綿のつむぎから始まり、染め、織りをしてみごとな布を生み出します。そしてその布は小袋や手さげになり、服になります。料理も上手で大町の山の家もお料理を担当してくださいました。絵も字も上手でした。彼女の生み出す世界に触れて、小規模作業所や授産施設の製品作りにどんなに手助けになったことか。
名古屋市千種区に「風ちい」というショップを出したことがあります。1990年ごろの話です。かなり古い昭和の民家を借り、改装してお店にしたのです。「風ちい」はOさんの発案で、福祉を中国風にもじってつけた名前。Oさんがその店に詰め、私が全国から選んできた障害者施設の製品を並べて売る店でした。テレビにも取り上げられたりして売上もそこそこありました。そのころにはたいへんすばらしい品質の製品を作り出す施設がいろいろとあり、風ちいに訪れる人にもとても喜ばれました。障害がある人も数は少ないのですがいっしょにお店で働きました。そんな「風ちい」ですが諸般の事情で家をお借りすることができなくなってしまい店を閉めることになってしまったという苦い経験もありました。
彼女亡き後、ご自分の工房が整理されて、機織り樹、糸つむぎ機などが展示され、作品もさりげなくかざってありました。お墓はその家の下、ご主人とともに眠っています。
きっと、そのまわりはかたくりの花ならぬ、白い小花が一面に咲いているにちがいありません。かたくりの花を見に行くより、Oさんのお墓参りにいきたいな。
私は「ゆめみるゆめこ」さん
名東福祉会のブログを読んでいると、今、福祉は大変なんだ・・・と実感するけれど、加藤さんの幸せそうな感じが伝わってきてうらやましいよと会社経営をしている友人が言います。天性の楽天家の私ですが、こんな私だってストレスがないわけでもなく、辛い事もいっぱいあります!と、反論するのはかえって墓穴を掘るようなものでした・・・。では今日は私のストレス解消法をご紹介しましょう。
その1 利用者の皆さんとお好み焼きやさんに招待されてみんなが「おいしい、おいしい!」といっぱい食べているときの笑顔をみているとき。
その2 ボランティアさんが施設に来てくださるとき
その3 利用者の家族の人が「我が家で咲きました」といって、お花を持ってきてくれるとき
こうして振り返ると、施設で利用者さんや家族の人たち、地域の人たちと触れ合っていることそのものが私のストレス解消法なんだということに気がつきました。
みなさんとのふれあいは、私の楽しみでありますが、施設に訪れた家族の人はもちろん不平や不満をおっしゃいます。福祉がたいへんな今、家族の不安はとても大きくなりました。そうした不安の広がりの中で、懸命に努力してくれている職員のみなさんや親や法人の役員さんたちがいることがほんとうにありがたいことです。幸せです。
今はストレスも大きいのですが、だからこそ新しい夢が生まれます。先日、友人とギャラリーめぐりをしたとき、「奈々枝さんも名東福祉会のみんなの作品を展示するギャラリー奈々枝を開設しなさいよ」といわれました。名称はいまいちだけど、「いいな」と思っちゃって、また、夢がふくらみました。やっぱり、私は「ゆめみるゆめこ」さんだ。
ああ、仕事を続けてきてよかったな
このごろ、福祉の世界は様変わりしています。
どうしてこの世界に入ったのか・・・を最近考え込むことが多くなりました。
長男が高熱を出し、そまま熱が下がらず国立病院入院に入院したことから始まったことがきっかけでした。
長男は入院してもなかなか高熱が下がらず、大発作を起こしましそのまま半身不随となりました。
重い障害をもったわけですが、なんとか生きてほしかったから・・・とそのころのことを思い出します。
中日新聞の「中日よろず相談」に駆け込み、そのころ相談者になっておられた名古屋大学の堀要先生とお会いしました。
先生は、これからは何かとこの人に相談するようにしなさいと、村上英治助教授を紹介してくださいました。
お二人とも亡くなられましたが、日本の自閉症治療やカウンセリング技術の発展に多大な貢献をされた先生です。
何も福祉の制度がなかった時代です。
そのころはリハビリテーションとはいいません。毎日、名古屋大学病院のマッサージに通い、ひたすら生きていてほしいと願う毎日でした。
そんなときに、何も表情に変化がなかったわが子がチラッと見せた目の輝きだけで私は生きていくことができるようになりました。
何十年もたった今でも、物言わない人が私を見るとき、心なしか目が変わります。
ものが言える人はいろいろ私に言いかけてくれます。そんなときが
「ああ、仕事を続けてきてよかったな」
と思うときです。
人のお世話をすることはたいへんです。一緒に歌を歌っているときですら気はゆるせません。
トイレ、薬と走り回ってもみんなありがとうとはいいません。
利用者の人たちに懸命の支援を行ったとしても、むくわれることはわずかです。
でも、そうであるからこそ、ほんの些細で見逃しそうな変化であっても、私たちに大きな喜びをあたえてくれるのだと思います。
そうした小さな積み重ねが今日の福祉を築いてきたのだと思います。
心臓手術をして7年。お医者さまは5年くらいで再手術が必要だとおっしゃっていました。もちろんあの手術を受ける気力も体力もありません。いつまでこの心臓はもってくれるのやら・・・。
生きていることはつくづくすばらしいことだと思います。
せっかく私たち日本の人たちみんなで築いてきた医療や福祉が灰じんに帰すことのないよう、祈るばかりです。
人を思いやる心こそ大切
暖かい日が続いたかと思うと、この2~3日、寒くて愛知でも風花が舞いました。
例年、風花の降る頃は桃の花も咲き始め、いつももうすぐ春だなあと感動したものですが今年あたりは何がなんだかわかりません。
友人にメールを送ったら早速、丁寧なお返事があり、写真まで何枚もありました。何と便利な世の中であろうと思います。
でも、老人にとってメールを頂くことはたいへん嬉しいものの、そうそうは送ることができません。じっとがまんして、また今度送りますと心の中でいいました。
世の中が移り変わり、それとともに福祉の様も変わります。
社会の仕組みがどんなに変わったとしても、人を思いやる心こそ大切にしたいものです。
しょうじょうばかま
昨日は春の嵐のような一日でしたが、一日明けて3月7日の今日はメイトウ・ワークス家族会の梅見バスハイク日。
少し風はありましたが、まあまあの日和でした。
役員さんの努力の企画にもかかわらず、参加者が意外に少なかったので卒業生のお母さんたち(他施設に移られた方)5名と私までさそっていただき、岐阜の梅林公園へ行ってまいりました。
梅の花は残念ながら満開を過ぎていましたが、とうふでんがくやおつぼさん(たにし)を頂きながら、それぞれの卒業生のその施設での様子や近況報告を聞きました。いずこも障害者自立支援法発表以来の様変わりにうなずいたり驚いたり。毎月10万円近い利用料を支払わなければならない方や、病院形態の施設に入って、親自身も助かっているという方や、5名5通りの状況でした。
他の施設のお話を聞きますと、施設ごとに利用料金は様々です。入浴料やテレビの利用料など細かい料金設定をしてなんとか不足ぎみの運営費を捻出するようにしていたり、寄附をお願いしたり、バザーを行ったりで料金設定や運営資金の集め方や考え方にそれぞれの法人ごと、施設ごとに違いがあります。
ほんとうに施設の利用料金が払えない家庭もありますし、学校給食を払わない親があるように、そうした負担は払うべきではないと考える親もいることを思うと、これからの福祉施策の難しさばかりが私に迫ってくるようで考え込みました。
帰りに「しょうじょうばかま」を見つけて、春の山草をつい買ってしまいましたが、せめてもの私のやすらぎです。
「ふれあい館あさひ」が日進市の東山にオープンしました。
高齢者や障害者もその親たちが気がねなく誰でもひとときを過ごしホッとできる場として、「ふれあい館あさひ」が日進市の東山にオープンしました。
主催者の木谷さんのご自宅の敷地内に新築されたものです。
玄関は坪庭になっていて、「おや?料亭かな?」と錯覚しそうな空間。中はモダンなリビングルーム。2回は和室です。
誰でもお茶を飲みながら楽しいひと時を過ごせそうです。
遅れ馳せながら、オープンのセレモニーの余韻が残る会場に到着すると結構沢山の人が来館されていました。
和気あいあいとした雰囲気の中で、お茶と手づくりのよもぎ大福や桜餅をいただきました。
90歳のお母さんが作られた根付をいただき、「これからどんなことをやっていきましょう」とみんなでわいわいがやがや。
親が自主的に集まり、街の中で生活を楽しみながら、それでいて自然に互いを支えあえる場をつくることはとても大切です。
今は障害福祉、高齢者福祉の制度が曲がり角に来ているとき。国や自治体の制度によるのではなく、こうした街の「草庵」がいつの時代に増して求められているのかもしれません。楽しい未来を想像して岐路につきました。
名東区福祉祭りは30年近く続けて来ましたが…
2月25日(日) まだ2月だというのに毎日暖かい日が続きます。
今日は名東区の福祉祭りということで、コロニーへ行く前に身体障害者スポーツセンターへ出かけました。
今回は驚くほど会場いっぱいの入場者です。来賓もずらりと並び、特に会場は若い親子の姿が大勢見えました。
ステージプログラムは多彩で、見るものを飽きさせません。特に、今年は上社幼稚園の和太鼓参加がありました。
「孫が和太鼓をたたく晴れ姿を一目見たいと父兄、おじいさん、おばあさんがたくさんかけつけてくださったので、こんなに大勢なのですよ。」
と大忙しの中で説明してくださったのは名東区社会福祉協議会の事務局長さん。子供たちはとてもかわいく、みんなでお上手な和太鼓に拍手を送りました。
福祉製品の販売コーナーではメイトウ・ワークス、はまなす、愛知視覚障害者援護促進協議会、杜の家かみさと工房、手をつなぐ育成会、TUTTIなど、福祉関係のお店がずらりと並び壮観
です。バザーにも沢山の出品があり大勢の人が大賑わい。
名東区福祉祭りは30年近く続けて来ましたが、やっぱり区民の中に浸透してゆくことは地道な活動の上に楽しい企画が必要だと痛感しました。
冬祭り
今を盛りに、梅の花があちこちで咲き誇っています。
上ノ山作業所の庭に、老木が二本、今、満開です。大きな梅の実が予想されます。そして、レジデンスの隣家の境あたりには、ふきのとうがいっぱい芽を出していました。それを沢山つんで、ふき味噌を作りました。上手に作れたらバザーに出そうと思ったのですが、料理酒を入れすぎたのか私の顔は真っ赤になってしまいました。何をやらせても下手なんです。
翌日の2月17日はレジデンス日進の冬祭り。その日は東京へ行くはずだったのですが所用があって欠席し、かわりに冬祭りに顔がだせることになりました。
午前中は地元の野方ばやしです。去年も披露していただいたのですが、一段と上手になられました。うちの利用者さんも少しやらせていただきみんな喜んでいました。
先生から、「レジデンスの皆さんにも演奏できるようにおしえてあげようか」と言っていただき、私はとても嬉しく思いました。
このあと、レジデンスの家族会のみなさんがつくった、トン汁やからあげを召し上がったり、バザーの品物を沢山買っていただいて、大変嬉しかったです。
午後からは、レジデンス日進のご近所のギター屋さんがギターの演奏に一家中で来てくださり、楽しい演奏をしてくださいました。
冬祭りは感謝でいっぱいです。
親亡き後
瀬戸からお母さん4名がグループホームの話を聞きたいとレジデンス日進においでになりました。いろいろ雑談をすすめていました。話を要約すると親亡き後、ひとりで生活してゆく姿を知りたいのが親心というもの。そのためには若いうちから親から離れた生活を体験して「親がいなくなったらこうやって暮らしてゆけばいいのだ」と親自身が納得することが必要。そうした場をどうやってつくったらいいのか・・というお気持ちと受け止めました。
今までも、同じ思いの人がいっぱいいて、施設や社会福祉法人に「入所施設に入れてください」、「グループホームをつくって下さい」とか「ケアホームをつくって」とお願いしていれば何とかできあがってきました。ところが最近の情勢は施設がなかなかできません。制度も予算も厳しくなり、少しずつ、地域で生活することが難しくなってきているような気がします。未来はけっしてばら色ではなく、自分たちがほしいと思う生活施設をつくるにはどうしたらよいかを真剣に考えないといけないと考えるようになってきたと思うのです。
養護学校を出て、理想の施設が満杯で、行き場がないと自分たちで小規模作業所をつくって頑張ってきたのと同じだなあと思いました。地域でがんばって生活してきた人たちですが、とうとう、親亡き後という現実が迫ってきて、終の棲家を探し始めたということです。どうするかという結論はでませんでしたが、「また来ます」といって帰ってゆかれました。
親亡き後といえば、今日、レジデンス日進のご利用者の方の親さんもなくなられました。みんなそんな年齢になりつつあります。
地域の中で本人がさりげなく暮らしてゆけるようになるために、ヘルパー制度ももっと充実してゆかねばなりませんね。いろいろ考えさせられることばかりです。
地域でさりげなく暮らしていくことにつながることを確信して
友人と一緒に春日井市で行われた「こころのバリアフリー市民のつどいin春日井」へ行ってきました。主催は社団法人愛知県社会福祉士会(尾張東ブロック)のみなさん。今回は、中部大学の学生さんを始めとして、地域のNPOのみなさんや大勢の市民の参加がありました。障害には身体障害、知的障害、精神障害がありますが、このつどいにはいろいろな障害がある人が集まり、障害者本人も自身の声でメッセージを発表されました。
寸劇を演じた中部大学の学生さんは、障害者問題をテーマにしたことは初めてのことだそうです。発表にあたって自分たちの知らない世界に触れ、最初はとまどいがあったとのこと。けれども障害がある人と交流し、いろいろな事を学ばれたといいます。ひとりひとりの感想のことばに新鮮さと一生懸命さがひびいてきて、思わず胸がジーンとなりました。
これからは、このようにすべての障害を持った人々を中心として一般の人々も参加して進めて行く行事が多くなってゆくのではないでしょうか。そうした活動が障害がある人が地域でさりげなく暮らしていくことにつながることを確信して、帰途につきました。親たちもちょっと考えを変えるべきです。時は音を立てて流れていきます。
冬まつり
1月26日、ボランティアを申し出てくださった方々が、5名の日進市民の方々がレジデンス日進の2階の地域交流室やその周辺や階段など丁寧にお掃除してくださいました。ほんの短い時間だったけど、てきぱきとこなされ部屋はとてもがすがしくなりました。
終了後、お部屋で雑談会をしました。みんなで「野の花会」と名づけ、毎月、第3金曜日を定例のお掃除会にすることになりました。とても明るい方々で、「屋上の草取りも楽しみだ」とか「大町の山の家に春になったら行こう」とか話題はきりがありません。
「こんな小さなことでも喜んでいただけるならとっても嬉しい。ありがとうございました。」
と、お礼をいったのは掃除をしてくださった側。お礼をいうのが反対です。それだけではなく天白ワークスのパンまで買って帰られました。
地域の人々がいろいろ出入りしていただき応援や感謝までされることは、私たちにとってはこれ以上の喜びはありません。来月2月17日(土)はレジデンス日進「冬まつり」。ミニバザーやこの地域の伝統の「野方ばやし」もありますのでぜひまたお出かけ下さい。
1月27日はレジデンス日進で遅ればせながら裕○さんの成人の祝いを行いました。今年成人を迎えた裕○さんに、あらかじめ「何が食べたい?」と聞いたら、「カツとから揚げ」とのこと。それならば、ということで、当日は職員手作りの「から揚げ成人式」が始まりました。
机やお鍋や道具を玄関横の中庭にならべ、ぼちぼち料理がはじまります。二階の窓から裕○さんのお父さんと眺めていたのですが、職員の動きの中にバカに包丁さばきの手馴れた人がいます。シェフのかっこうをしたもう一人の人と手順よく進めていきます。このふたり、れっきとした調理師免許を持った人で、前職はシェフだったのです。一方、炊事場のほうでは山田統括本部長がからあげと奮闘していました。
やがて、紺のスーツ姿の裕○さんがあらわれ、みんな拍手でむかえ、まっしろなレイを首にかけました。「おめでとう!!」とプレゼントの贈呈の後、カツやから揚げなどに挑戦。食べるわ、食べるわ。みんな「腹いっぱいで入らん」といいながら、このあとカレーやケーキもどんどん入ります。お父さんは写真をとったり、終始にこやかに眺めておられました。入所したころのお父さんの暗い顔(失礼!!)は消えていました。
花・ジャングルジムの講習会
1月19日、幼児グループの研修会がレジデンス日進の地域交流室で行われました。(主催 花・ジャングルジム)
朝早く、東京を立って来られた手塚直樹先生と青山和子先生の講演で、幼児期、児童期、思春期の問題をとてもわかりやすく、明快にお話くださった後、ひとりひとりの現在抱えている問題をお聞き下さり、それに対してそれぞれのお答えをいただきました。
10時から3時まであっと思う間に時間が過ぎて、お昼で帰らなければならない人はとても名残惜しく、泣いて感謝の思いを述べられ、つられてみんながいっせいに泣き出してしまいました。自分たちが迷いに迷って子育てをし、せいいっぱいがんばっているのを少し手をさしのべてさあこうやって子育てをしてみましょうと教えられた気がしたと思うのです。
「人との出会いがおだやかだとその子はおだやかに育つ」
「座って待つことを教えましょう」
等等心に残ったこどばをかみ締めていました。手塚先生、青山先生ありがとうございました。
■青山和子先生のご紹介
□日本女子大学社会福祉学科を卒業、当時数少なかった知的障害のある人の入所施設、現在の「総合福祉センター弘済学園」に専門職員として従事し、おおむね40年にわたって、知的障害のある幼児、児童、成人の支援に親身になって行動されてきました。
□総合福祉センター弘済学園は、幼児から成人まで一貫した支援を行っていますが、特に知的障害のある幼児と母親が3ヶ月にわたって入園し、早期療育の基本などを具体的に学び・経験していく、日本で最初の「母子入園」の責任者として、多くの実績を残されています。また、思春期のご本人やご家族についての支援には、とても経験が深い方です。
□昨年4月に、総合福祉センター弘済学園長を退任され、東京の麹町にある弘済会館総合相談室の療育相談担当をはじめとして、知的障害のある人やご家族の相談・支援にあたっています。
□現場の第一線で直接支援にあたってこられた方ですが、この間いくつかの大学で講座をもたれ、また「知的障害時・者の生活と援助」(一橋出版)、「ちえおくれの子どもの日常生活指導(3部作)」(学習研究社)等、多くの著書があります。
(手塚直樹)
■手塚直樹の自己紹介
□知的障害のある人をはじめとして、心身に障害のある人の職業や社会参加の分野で活動してきました。この間、わが国最初の知的障害者のモデル企業で多くの知的障害のある人と共に働いた経験をもっています。
また、鉄道弘済会本部社会福祉部で総合福祉センター弘済学園を担当したことなどが、私の知的障害のある人の支援の原点になっています。こうした関係から、青山和子先生とは40年来のお付き合いを願っています。
□その後大学の教員として、主に社会福祉専攻の学生の教育にあたってきました。現在は、新潟医療福祉大学の名誉教授です。
□現在、東京都町田市にある「社会福祉法人白峰福祉会」の理事長を努めています。知的障害者通所授産施設、通所更生施設、グループホーム、居宅介護事業等を運営しています。通所施設のご利用者は、重複障害や自閉症の人がとても多く、障害者程度区分では、区分6および5の人が3分の2以上を占めているという施設です。日々、ご利用者やご家族とのかかわりの中で、本当に多くのことを学び経験しています。
温故知新
「温故知新」ということばがあります。これは「孔子」が論語として弟子たちと交わした問答や行動を記録したものの中に記載さされているものです。「温故知新」の意味は先人の人たちが受けてきた困難について知ることや、それを乗り越えてきた方法について知ること。それによって今の問題の解決や進むべき道が開かれるのではないかということです。
育成会の発足当時から携っている私は、そのいろいろな歴史の中から今日の福祉が築かれてきたと思っています。
養護学校がこれから変わろうとしています。そのとき、養護学校がなぜできたのかを知ることで変わるべき方向がはっきりするということがあります。授産施設が自立支援法で変わります。授産施設がどういうきっかけで、どんな必要性があってできたのかを知ることは、どうかわるべきかを見誤らないために大切なことだと思います。古いことを温めつつ、新しいことを考えましょう。
このところメイトウ・ワークス、レジデンズ日進、天白ワークスと新年会に連日呼んでいただいています。温故知新とはちょっと話がずれますが、今の名東福祉会の家族会は親子ほどの年代の差があります。お母様方どうしの会話になりますと、旧き時代を伝える年長のお母様方の苦労話、新風のような感覚が感じられる若い親さんの話、お互いがそれぞれの話に関心をもって聞き入ります。
私は傍で聞いていると、昔話はみんな懐かしく、そのころあちこち飛び回ったことが鮮やかに思い出されます。若いお母さんたちはショートステイを利用し、就労を考え、子どもを束縛せず、自分自身もたくましく生活をエンジョイされていることに感心します。
思えば、何も制度は整備されていなかったけれども、みなさんに助けていただき、苦労を楽しめた若い日を思い起こします。歴史の中でみんながそれぞれつながっているんだということを思い、温故知新を地で行くわが家族会のありようを見て、嬉しさを改めたしだいでした。
それにしても明るい家族会です。新年会では俳句の会や絵の会や旅行の会を再びやろう!!といわれました。自立支援法の苦難はどこへいったの? でもまあ、やっぱり明るく楽しくやるのが一番。嬉しかったです。さそってくれて。老人もいっしょに頑張りましょう。
明けましておめでとうございます。
明けましておめでとうございます。
本年もどうぞ名東福祉会をご支援くださいますようお願い申し上げます。
昨年は障害者自立支援法にあけくれ、振り回された感があります。できるだけチャンスをとらえ、要望や陳情を繰り返し、具体的に訴え続けて参りました。12月に入ってやや修正への動きが見えてきたところですが、まだまだ気は抜けません。
新しい事業を起こすにあたっても、様々な壁があり、一つ一つ具体的に切り開いてゆかねばなりません。
発想を変えて、私たちは障害を持った人たちのそれぞれの障害に応じたよりよい暮らしができるように頑張りたいと思います。
年寄りはおとなしくしていたら・・・などとはいわないでください。心の中は燃えています。
レジデンス日進では家族会が主になってクリスマス会が行われました。
歌は芳賀さん。ピアノは上西さん。今日はボランティアで来ていただきましたが、日進市の地元で教室を開いている先生方です。
美しい声で歌を歌ってくださると、利用者のみんなもうっとり。ピアノ演奏では先生の横にS君がちょこんと座っています。始めはニコニコとしていただけでしたが、しまいには少しずつ指がピアノの鍵盤の上を踊ります。案外「音楽」らし聞こえ、ちょっとしたお愛嬌なので、先生もなすがままにしておかれたそうです。
思えば以前から音の大嫌いな人でした。大きな音がすると飛びだしていってしまいます。この頃、そんなことがなくなったと思っていましたら、今日は外に飛び出すのではなく、一緒にピアノを弾いている感じ。しかもニコニコ笑って。いい感じです。
この後、ゲームや松健サンバをしてケーキを食べていろいろプレゼントをもらってその後、所長より工賃が渡されました。みんな、「オーッ!!」と声を上げて喜んでいました。
新しい年を迎えたら、働ける人はもっともっと働いて、工賃をもっと沢山もらって、楽しいこともいっぱいやろうね。今年はもうじき終わりますが、元気にそろって新しい年、よい年をお迎え下さい。ありがとうございました。
天白ワークスに用事があって出かけました。
作業室に入ったとたん、ひとりの利用者が駆け寄ってきて、
「ちっとも来なかったねえ。なんで来てくれへんの?」
「うん、忙しかったもんでね。」と私。
「このごろ(レジデンス日進の)Sさんが来なくなったので、私ひとりでがんばっているんだよ」と新作のはしおきを見せてくれました。
そこへまたひとりが来て「ちっとも来んなあ。来なかんよ。(来ないといけないよ)」と背中をたたきました。こんな私でも喜んでくれるんだと思いました。
ちょうどその時、10人ばかりの地域のグループの方達が陶芸教室を終えて帰られるところ。この方たちは老若男女さまざまな人たちのグループで、天白ワークスの利用者の人たちの作業と平行して開催されている陶芸教室の参加者のみなさんです。私はごあいさつするとグループの長の人が「私たち、おじゃまして申し訳ありません。」とごあいさつ。みなさんいっせいにニコニコと口々にごあいさつ。「来月もまたおじゃまします。」と帰っていかれました。
仏教に、和顔施(わげんせ)ということばがあります。無財の七施のひとつで、自分の損得から離れて、人に対していつもにこやかに笑顔をもって応対すればいろいろ良い方向へ転じていくという教えです。
私はこうした教えがあることも知らなかったのですが、私は利用者さんたちの笑顔に支えられて生きています。利用者さんの笑顔はまわりの人々を幸せに向かって歩むよう後押ししてくれているようです。なにかと苦しいことが多い今日この頃ですが、私は毎日、利用者の人たちとも、地域の人々とも笑顔で接することができ本当に感謝です。
12月17日(日)、今日はレジデンス日進の利用者さんたちをいつも診療してくださっている福島先生ひきいるドクターズバンドのクリスマスナンバー演奏の日です。バンドメンバー7人すべてがお医者さまです。
私は丁度お客様があって、用事を済ませた後、途中参加でしたが、デイケアセンターに入っていくと圧倒される程熱気むんむんでした。みんなそれぞれカスタネットやタンバリンを持って踊っていました。バンドの方々も汗をかいて顔が光って見える程熱演していました。お客様も参加され、「重度の方が多いと聞いていましたがどの人が重度の方なのかわかりませんね」とおっしゃいました。
大きな音がすると走り出してしまう人、興奮して大声を出す人、ボンボン飛び上がる人といろいろいたのですが、みんな楽しそうに踊ったり、楽器をたたいたりしていました。楽しさがわかってきたのだと、私はとても嬉しく思いました。
こうやってレジデンスの中で暮らしているみんなですが、施設の周りの人々がいろいろ外の空気を運んでくれます。音楽も仕事も楽しいこともすべてが中で暮らす人たちの心の糧となって何歳になってもみんな成長していくもとになるのだと思います。
用事があってコロニーへ出かけました。用事が済んで私は長男と少し時間を頂いて、春日井市緑化センターへコーヒーを飲みに行くことにしました。
偶然にも、春日井市立養護学校高等部の生徒さんたちがハンドベルの演奏をするところでしたので、長男と二人ならんで会場に座りました。
そろいのハンドベル用の制服を着用し、白い手袋をして整然と並んだ様子はみんなとても凛々しく見えます。何人かの人がかわるがわる説明をします。題目の説明をする人、春日井市の福祉まつりで演奏したことを誇らしげに話す人、他の市町村から招かれて演奏を行ったことなど、みなさんとてもすばらしい挨拶で並みいる人たちは万雷の拍手でした。私はこの人たちなら全員就労することができると確信しました。障害の程度区分が高いとか低いとかいうこととは別に、どんな形でも良いから人に自分のことをしっかりと伝えることができることがとても大切なんだなあと思います。
演奏もすばらしく、「サンタがやってくる」「ジングルベル」「きよしこの夜」などクリスマスにちなんだ曲目を続けて演奏してくれ、長男もリズムに合わせて体をゆすっていました。「ハンドベル聞けてよかったね!」というと、嬉しそうにしていました。その後、子どもたちと養護学校生徒とがハンドベルを通してのふれあいタイムがあってみんな嬉々として交流していました。
時間が気になるのでそこまでにして、急いでコロニーに帰りました。棟に着くと、ノロウィルスによって下痢気味の利用者さんたちの世話で職員さんは大わらわ。ノロウィルスによる急性胃腸炎は2~3日ですぐに治りますが、感染する率も高く、熱も出るので大変です。おかげでもう下火になったそうですが、世話をしている職員さんたちに心から頭が下がりました。ありがとうございました。
※私たちもよく手を洗いましょう。
※今日も一日、とても良い日を過ごせたことを感謝します。