今朝、チンチョウゲの花が私の部屋に届けられました。
早春を感じさせる花で、お彼岸も過ぎるころに終わりとなり、やがて桜の季節へと移ってゆく、つかの間の春つげ花です。
昔、私の家・・・というより加藤家の庭はたいへん広く、石灯篭や大きなけやきの木、小さな池、イチジクの木、離れの家までありました。
屋敷の地所は本屋がまんなかにあり、その前に古い菓子工場、私たちの家、庭が全部つながっていて、名古屋駅から歩いて10分くらいの距離にあるにしてはうっそうと木が茂り、都会に置き忘れられた別世界のようでもありました。
そんな大家族の中で3歳にして身体障害と知的障害を持つようになった長男が暮らしているといろいろと問題を起こします。長男が育っていく中で、私はいつも気が休まらず、なにかがあると心が折れそうになる日々でした。
庭の一角にチンチョウゲの木が2~3本あって、春ともなると、馥郁(ふくいく)たる高貴な香りに私はいつも慰められました。どんなに苦労していても「また頑張ろう」と気をとりなおしたものでした。
いろいろと懐かしい花をいつも届けてくださる利用者のお母さんたち・・・。
私はこれまで数えくれないくらいの人々に支えられ、囲まれて、こんな年になるまで生きがいを感じながら暮らしています。
支えられるだけで何もできない私ですが、私はみなさんの幸せを祈りましょう。
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コロニー解体
愛知県コロニーを解体して地域の中で生きてゆく
そんなメッセージが愛知コロニーを利用している人たちに呼びかけられている。
施設は家庭ではない、知的障害者は家庭的な雰囲気のもとで生活すべきだ・・・。
地域福祉-そういえば誰も反対することができない。
だが彼らや彼女たちは30年もの長い間コロニーで生活してきた。
コロニーを出てケアホームに移ることについて息子に聞いてみた。
「ここ、いいとこだがあ。」
息子は信じられないほど的確なことばでいいかえした。
友達とのつきあい、親身になって世話してくれる大好きな職員、彼らはそれなりの家庭的な意識を持って生活している。
先日、日進の家からコロニーに帰った際、あたたかい職員の出迎えでこれまでに見たことのないような笑顔を見せた。
このごろ彼らの年老いた親たちから悩みを相談されることが増えた。
「ケアホームを自分たちで建てろという。並大抵ではないわねえ。どうしてこういう子を神様は授けなさったのかねえ」
母親は力なくうなだれる。80歳を超える別の母親は言う。
「毎週日曜日にはあの子に会いに行っとる。会うたびに母さんを許してねと心の中で叫けんどるけどが、どうもならんわ」
年老いた親元に知的障害の人たちが帰っても、もう自ら世話をしてやれないことは明白だ。
行政の担当者も親も民間福祉施設の人間もみんながわかっているのに
「地域福祉」の理念の下ではそう考えることは「悪」となる。この違和感をどうしたらわかってもらえるのだろうか。
50数年前、育成会の相談員だった山田先生が私の家に訪ねてこられた。
「麦の会会員の中で母子心中してしまった人が出た。加藤さん、あんたががんばってこういう人がでないようにしてください」
とおっしゃった。この一言が私の一生の課題となって今日まで来た。
家庭の形が大切なのではない。支えてもらえる人がいることが地域福祉。
障害を持つ子を殺しての親子心中は、あまりにもむごく、寂しい。
わが子が障害があるからこそ、その分、人にはない力が与えられている。
親どうし、心を奮い立たせ、言葉だけの地域福祉ではなく、ほんとうにあの子達が幸せになれるための方法を考えてゆきましょう。
若い力
今日は日進市に在住する若い母親グループ「ジャングルジム」の皆さんと座談会をすることになり、出かけました。
お母さんたちは若くて、子どもたちは私のひ孫のような年齢です。
ひとりひとり年齢と障害の程度と今悩んでいることをお聞きしているうち、自閉症や様々な新しい病名のお子さんがいて、みんな、子育てと母親の苦しみを
かかえながらがんばっておられるのだと感じました。こんなに福祉が進んだと思われるのに、50年前と変わらない気がしました。
育児、通園、学校、兄弟の思いなどいろいろありましたが、
今の悩みに振り回されないで、10年先の目標を持ちましょう。
社会情勢が移り行く中でみなで話し合いながら、糸口をみつけて行きましょう。
と、私の体験をもとに話させていただきました。
たけのこの家に通っている人が数名いて、そのこともうれしく思いました。
ジャングルジムの活動と考え方は今の時代にあった、そして前向きな姿勢が伝わってきて、
核となるリーダーたちの献身的な動きがよく見えました。
知的障害者の福祉にとってとても重要な人たちが、きっとこの中から将来出てくると確信しています。
春が来た
「おはようございます。」
11時ごろ、レジデンス日進のお母さんたちが部屋へ入ってきました。
いつもいつも施設のまわりやいたるところをせっせとお掃除したり、花の世話をしてくださる人たちです。
今日は朝から寒くてストーブにかじりついていた私は、
「あいかわらず、寒さにもめげず元気なお母さんたちだなあ」
と思いながら見ていました。するとテーブルの上に、次から次と大小の「ふきのとう」が並べられて行きます。
私は思わず大きな声で
「あっ、春が来た!!」
と大喜びしました。
「庭を掃除していたら、見つけたんです」
とお母さんたち。外気は2度。庭の掃除を終えて春を届けて下さったことに心から感謝しました。
さあ、寒さなんかに負けずに、私もがんばろう!!
凛として空を見上げる花を咲かせることができたら・・・
1月17日 名東福祉会関係の施設家族会の皆様が大勢集まって、私が愛知県福祉協会からいただいた福祉功労賞を祝ってくださいました。
各施設の所長も職員を代表して参加し、花束まで贈呈していただけました。
こんなうれしいことは久しぶりです。
実は私はこれまで数々の立派な賞をいただきましたが、いつも障害の子を持つ親としてあたりまえのことをして来て、
私だけが賞をいただくのはどうも面映い気がして、いつも賞をもらったことは皆様にはお知らせせずにいました。
このたびは、40年も前にお子さんを世話させていただいたお母様から
お祝いのハガキをいただき、感動したことを名東福祉会の機関紙「WORKS」の奈々枝日記に掲載したので、
話がパッと広がってこのたび全家族会の主催でお祝いいただくこととなりました。
記念品もいただきました。
高齢者にとって、心まで温まる、暖かなショールでした。ありがとうございました。
お祝いをひとりひとりおっしゃってくださったのですが、
「これから、ひまわりのように大輪の花をもう一花咲かせてください」といわれました。
私、今年で80歳。レジデンスが最後の最後となる施設と思っていました。
もう一花咲かせるというのは、80歳を過ぎたものにとって、重いはなしです。
8年前、レジデンス日進を国の補助金で建てようと申請をする直前、心臓が悪くこのままではおそらく1年ほどで命がないと言われました。
何をするにも息がきれ胸が締め付けられるのでそのとおりだと思いました。
「もう1年だけ生かしてください。それでまったく悔いはありません。」と心臓手術に踏み切ったときには、レジデンス日進こそ、最後の最後になる施設と思っていました。
ところが、その後も施設の必要性はなくなりません。
今度はたけのこの家というまったく新しい意義深い施設ができ、はたまた楽しいメイグリーンができ、念願のケアホームができる日もももうそこまで来ています。
私は夢のまた夢との思いです。
これでもう大丈夫となるはずだったのに、障害者自立支援法はまったく思いもよらない法律でした。
お祝いを頂いた翌日の1月18日、中日新聞に母親が知的障害や病気がある息子二人を殺害したという記事が小さく載りました。
福祉は戦後60年かけてずいぶん進んだかと思ったのに、あまりにも使いにくい制度になったので、不安ばかりがひろがり、こんなことになるのではないでしょうか。
私の長男が障害児となった53年前とそんなに変わりません。
50年経っても、母親はわが子に障害があることを受け入れることはつらいのです。前向きに生きていくにはどうしても私たち仲間の力がいるのです。
こんなことにならないように何とかしなければと痛切に思います。お祝いをいただいて、大輪を咲かせよといわれてもとてもとてもと思いましたが、私は原点にぐいと引き戻されたような気がします。
大輪の花とはいきませんが、野菊のようにささやかで、凛として空を見上げる花を咲かせることができたら・・・と思います。
子どもを思う親の気持ちはみんな共通
皆様新しい年を迎えおめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
今日はメイトウワークス家族会の新年会でした。おいしいお料理がたくさん出て幸せでした。
あいさつのあと、皆さんに何かご希望があったらおっしゃってくださいと問いかけたところ、
「現在はメイトウ・ワークスに通って幸せですが、親が年を取って自分のこともできない日が来たとき親ひとり子ひとりではどうすればいいのかわからない。この次は親子で入れる施設をつくってください。」
との意見が圧倒的に多かった様です。親として年を取ったときの不安はみまさんがまだほんとうに若かった30年前からあったように思います。
ただ、そうした施設ができたとしても、みんな自由に入れるということにはなりません。
自由に入れる施設は利用料が高く、低料金で快適な施設となると順番待ちでなかなか入れません。それは世の道理です。
将来建設される施設を待つだけではなく、今利用できる手立てについてよくよく目を凝らして見てみることです。
名東福祉会を見ればショートステイもあります。ご近所の法人さんもいろいろと門戸が開かれています。
親子で入れる老人ホームなんて考えないほうがいいですよ。
「子どもが地域でどうやって生きていけるかはいろいろ方法があります。まずはやれるところからいろいろな体験をしていきましょう。もう私(奈々枝)はこれで終わりだと思うので、皆さんのなかから土地を提供したり、建設資金をためたりして、子どもたちの行く末を何とか形作ってください。」
といいましたら、
「私は土地もお金もないので今から福祉士の資格をとって、名東福祉会のお役に立ちたい。」
という人も出てきました。
子どもを思う親の気持ちはみんな共通です。
小さな願いもみんなが力を合わせればいろいろ新案も出てきます。
みんなで未来をつくりましょう。
12月20日は日進市の福祉基本計画について検討する絵画行われました。
自立支援法が発表されて以来、私たちはたいへんとまどいましたが、なんとか危機を乗り越えた現在です。
多くの人の努力によって緩和策が続行されている中で、日進市の福祉第二次計画は見直しや新設を含めていろいろと要望したいことが多数ありました。
意見を書いて提出しておきましたが、市の担当者が分類して懇切丁寧に説明をしてくださいましたのでそれ以上私が発言することもなく終わりました。
障害のある人たちが地域の中で楽しく生活をしていけることこそ私の願いです。
以下の項目は私の思いを込めたものです。
○早期療育の支援体制、行動療育の確立を図ること
○学校教育における個を尊重した適切な教育支援体制をつくること
○支援つき自立生活を実現するため、介護給付・訓練等給付及び地域生活支援事業(ケアホーム等)の整備を行うこと
○障害程度認定審査会において、障害の特性に応じた審議がなされること
○地域住民への理解を深めるための、あらゆる活動を展開すること
去る12月7日、愛知県知的障害者福祉協会では平成19年度永年勤続職員顕彰が豊橋市のホテルで行われました。
県下の200施設から約330人が参加し、最近の障害者自立支援法下の数々の問題について8分科会に分かれて意見交換と情報交換を2日間にわたって話し合われました。
昨年も、施設利用者の保護者がたくさん参加されましたが、今年は昨年にもまして多くの保護者が参加され
「施設と保護者の連携」
というテーマの分科会ほか、シンポジウムの中でも「ともに行き、共に学ぶ」ということで3人の親さんがシンポジストに登壇されました。
有意義な大会の中で、大森授産所の施設長、酒井光男さんと不肖私との2名に功労賞、10年以上勤務された65名の職員に感謝状が贈られました。
以上の記事が新聞に載りましたがので、その後、何人かの方からお祝いの電話やお言葉をいただきました。中に、とても感動したおはがきがありましたので紹介させていただきます。
※
中日新聞の朝刊21頁で知りました。功労賞おめでとうございます。
お元気なお姿も写真で見ました。
昭和45年には娘明美(昭和50年3月16日死亡)のことで大変お世話になりました。本当にありがとうございました。
助けていただいて感謝をしています。
このはがきを手にした私は、思わずジーンときてしまいました。40年以上も前に短期里親として数日お子さんを預かっただけのことです。
ほんの些細なことでも、必要なときに必要な援助をすることの大切さ、仕事冥利につきます。
こちらこそ、覚えていていただいてありがとうございます。
私が親の会の中で事務局長としてさまざまな活動をしているとき、特殊学級のある先生から
「加藤さんは恵まれた家庭の問題しかやっていない。もっと底辺の家庭のあることを知らない」
と批判されたことがあります。
後日、詳しく聞きたく思い、その先生を訪ね、お教えいただきました。
・・・・
知的障害の人どうしが結婚し、子どもが生まれた。育てることを知らない親は子どもが学齢期が来てもほったらかし。民生委員のお世話で学校に行けるようになってもまともには子どもを育てることができません。
それでも子どもはなんとか育っていきます。その後もここではかけない問題が次々起こっていることを先生はこれでもかこれでもかというぐらい私に言いました。それまでそういう家庭を本当に私は知りませんでした。
親の会活動は、親が集まって活動しています。そこのころの親の会活動は全国組織がようやくでき、名古屋の親の会も社会福祉法人化に向けて強く進みだしたばかりでした。
やはり、集まってくる親も、問題意識が高かったのかもしれません。地域の中で目を凝らしてみてみると、福祉に関心がもてない障害がある人たちがたくさんいることがわかります。
日本の福祉制度は申請主義といって、助けてほしいといわない限りなかなか福祉制度を利用することができません。行政の仕事といっても、そんなに人手があるわけではなく地域でいろいろな問題を起こしながら生活している知的障害がある人やその家族までなかなか手がまわるわけではありません。
民生委員がそうした人たちを支えるのですがやはりハンディがある人を支えるしくみがなければ、問題を通報するところでとどまってしまいます。
30年以上経過して、いろいろと福祉制度ができ、障害がある人も就職を支援する時代になったのですが、親の存在や考え方は子どもの幸せを根本的に左右してしまいます。
毎日のまわりの人たちの接し方で子どもたちは変わってしまいます。
福祉制度がどんなに充実しても、ほんとうに大切なのは家庭のあり方、一日一日の暮らし方です。福祉制度はそれを補うことはできますが、主役にはなりえません。
ご近所の人たちが小さなことから良いこと、いけないことをしみこむように教えていくことがなにより大切です。落語の世界のように。
今の世の中は50年前から比べると立派な家ばかりになりましたが、塀は高く、顔が見えず、車に乗ったまま出入りするばかりで、内向きに庭があってまわりの事に関心を持ちにくいような形に変わってしまいました。
全日本育成会の中央情勢報告によれば、親の会の活動目標として第一に子育て支援、第二に家庭支援をあげています。
児童デイサービスの不足を解消することと、障害のある子の放課後支援等、障害のある子ひとりひとりに合わせた特別支援教育を国に求めています。
この主張は、親の会活動が発足した当時、私たちが確認しあった目標です。50年前からこの問題はまだ解決していないことになります。
いっそ原点にもどり、心のこもった特別支援教育ができるようになるため、全国の親たちと再び手をつなぎたいと思っています。
知的障害はまわりの人たちになんらかの形で支援を必要とします。
給料が人なみに稼げるようになっても、一人で生活することができるようになってもなんらかの支援が必要です。
特に本人が生活している場所で朝起きてから寝るまで
本人が出会う人が本人のことを理解していただけるかどうかで、
本人の幸せは左右されます。
願わくばひとりでも多くの支援者をつくり、本人のことを理解してくださる人をいかに増やしていくか・・・
これが親の仕事のうち、もっとも大切な仕事、役割だと思います。
自分の子どものことはかわいい。
ましてや障害がある子どものこと。心配で、いてもたってもいられません。
施設の中ではどうしても自分の子どものことを優先してほしくなります。
でも、目先のことで自分の子どもさえよければと思っていると、どんどんまわりの支援者が少なくなります。
知的障害があることは、本人にとっても、親にとっても決して不幸せなことではありません。
私の長男は、結婚1年以上たって、ようやくできた子でした。
みんな大変喜んでくださいました。
すくすくと育ち、満3歳のときには「健康優良児」として区で表彰され、賞状と大きな汽車のおもちゃをいただきました。
それから1ヶ月もたたないうちに、高熱が出ました。
今のように解熱剤も冷蔵庫も氷もない世の中。
家が忙しかったのとお医者様の休みも重なったのとで手遅れになり、左半身マヒとなってしまいました。
声をかけてもほとんど反応もなく、うつろな焦点も定まらぬ目をしていて、
よだれをたらし、言葉がなくなりました。
でも、私たち親子はたいへん多くの専門家の先生や、たくさんの障害児の親と出会い、
一緒に親の会運動や勉強をし、たくさんの一般の人たちとも交流し、応援もいただきました。
多くの人たちの励ましに、全身が震え、涙があふれるような体験もしました。
そうしてみると、障害がある子どもであったがゆえに、私は幸せな人生を送ることができたと思います。
支える人も、支えられる人も、応援していただく人に感謝していろいろ役に立つようがんばることも、
ともに幸せなのが障害者福祉です。
障害がある子どもの親として57年。私はともに生かされている幸せを多くの人に体験していただきたいと思います。
東京のある会の例会に出席してきました。この会は不思議なほどに全国各地からいろいろな立場の人が集まります。
大学教授、法人の理事長、施設長、職員、もと東京都の課長、育成会の理事長、会員、障害者団体の役員、ボランティア、詩人、医師、会社社長、地方議員・・・
なんと様々な人たちが会員となっています。
それぞれ近況を手短に話をすることから始まるのですが、それがまたとても勉強になります。あるお母さんが
「うちの娘が通っている作業所は今下請け作業がいっぱい来て、5時過ぎまで残業してくるのでクタクタで帰宅します。施設としては断ると今後下請け作業がもらえなくなるので職員も利用者も毎日残業でかわいそうですよ」と報告があると、みんなそれぞれ意見をいいます。
「神戸の作業所のように労働基準法にふれないか」とか、
「工賃はどうなのか」と質問が集中します。
また、医師の立場の人の順番になると、現況の医療事情を詳しく説明。医者も大変なんですと述懐されます。
それぞれ違った立場で、福祉や医療や本人の就労問題が語られとても勉強になります。
ですから何はさておき、この会に出席したいと思うのですが、そろそろ体力がもたなくなりました。
前日は友人宅に泊めていただき、おおしゃべりしてストレスの解消はできましたが、赤池の階段、名古屋駅のコンコース等、歩かなくてはらならいところが多く、辛かったです。
東京では駅のホームまで迎えていただき、地下駐車場から友人の車でハイウェイを走りました。
帰りはタクシーですっかり楽をしましたが、幾たびに体力の落ちていくのが自覚できて、数年後の自分を思うと先の暗さにしばらく落ち込んでいました。
けれども2~3日もすると、名古屋の友人たちに支えられて、またあれもこれもやらなくちゃあ! これも進めなくちゃあ!!
と「気」だけが一人歩きしています。
私は若い時、長男が高熱を出し、障害児となってほんとうにうろたえ、生きる望みさえ失いました。その後、やはりこの子のために生きなければならないと、自らいろいろ伝手を求めて一生懸命勉強しました。
たくさんの有名な先生やボランティアさん、施設の職員さんともお会いできましたし、たくさんの障害児者の親さんともめぐりあいました。
その中でも育成会の運動は私を育て、支えてくれました。私は育成会があったからこそ、今日あると思っています。全国、北海道から沖縄まで各県各都市の育成会とも交流を持ちました。
講演をさせていただいたことも数多くあります。一般の市民団体、教育関係の団体のみなさまと何度もお話をしたことそのひとつひとつが今でも心に残っています。
NHKやCBC、東海テレビでも出演を何度もさせていただきました。拙著の「花影の譜」は全国放送でラジオ番組の「朝のひととき」の時間で流していただいた時には、全国から沢山の励ましのお手紙を頂きました。
今、80才になるという私を見て、きっと若いときの私は想像もつかないことでしょうが、こんな私でも、若いときはひたすら我が子を含めて障害児たちみんなが「生きて、教育を受けて働けるように願い、一生懸命動いたものです。お会いして話をするだけでお互いが救われ、生きていく力がわいてくる・・・。親の会運動はほんとうに不思議であり、大切なものです。
最近では問題があるとはいえ、何もなかった時に比べればいろいろと法整備が進みました。そうした社会の雰囲気の中で与えられる事になれて、親の関心がややもすれば薄れているような気がして気をもんでしまうこともあります。親の会運動がなくても大丈夫ということはありません。そうした雰囲気に思わず、若い人たちを叱咤激励することもありました。
ところが、日進市の障害児を持つお母さんたちの集い「ジャングルジム」の動きをインターネットで読み驚きました。
何でも次々と実行してきます。子どもをかかえながらパパにも協力してもらい、情報通信のいろいろな手だても活用してどんどん人の輪を広げていく。私は感動しました。
まさに老婆心。彼女たちは自らわき上がるような思いで、なんでもやりこなしているのです。若いエネルギーはすばらしい。何も恐れずどんどんやって下さい。
がんばれ ジャングルジム!!
久しぶりに愛知県セルプセンターの理事会ならびに総会に出席させていただきました。
今後の雇用支援センターのあり方、愛知県工賃倍増計画、福祉の店が話題となりました。
私もたいへん興味を持って聞かせていただきました。
障害者の雇用と工賃倍増計画を打ち出し、県の特別予算までつけて共同研究と受注拡大を図って行こうとしていることを知り、なんだか嬉しくなりました。
私も小さなことでもやらなくちゃあ!!と思って、密かに考えていたところでもあり、我が意を得たりというところです。
メイトウ・ワークスもプロジェクトに入っていますが、他の施設もいろいろなことを考えています。
変わったところでは墓守プロジェクトとか清掃業務共同プロジェクトとか・・・。
これからもいろいろと出てくると思います。もののありふれた時代の中で、魅力ある商品やサービスをどうやって産み出せばいいのか難しいところですが、がんばりましょう。
みのりの秋になりました。
上の山児童行動療育センターの前に、大きな柿の木が二本あり、たわわに柿の実が実っています。
この夏は私も畑になす、きゅうり、ミニトマトをつくり、十分夏野菜を楽しむことができました。
みなさんにもらっていただいたりして、この物の十分な時代にも食べ物を自分で作ると言うことは貴重なことだと思いました。
私の女学生時代は戦中華やかなりし頃で、英語等の授業は廃止され、軍需工場の部品作業に切り替えられていました。
それでも女学校には「おかっぽう」の時間が周1回だけ残されていました。
食糧事情がひっっぱくしていることもあり、食材はなす、トマト、きゅうり、じゃがいも、タマネギなど畑の野菜ばかり。砂糖も不足していて調味料は塩とカレー粉ぐらい。たんぱく源がほとんどない粗末な調理実習が続きました。
それでも、弟や妹たちがそのおかっぽう実習材を持って私が帰るのを楽しみにしてくれ
「おいしい、おいしい」
と見る間に食べてしまい、とても喜んでくれるのがどんなに嬉しかったでしょう。
クラスのみんはは
「そのくらい、ここで食べてしまえば。苦労して持って帰らなくともよいのに」
と不思議がりましたが、私は、私のお料理を首を長くして待っていてくれる弟や妹たちを思い、阪急電車にゆられながら帰宅しました。
児童療育センターの評判も良く、畑は今や秋ものの野菜が目立ちはじめています。空地にしてケアホームが建つのを今か今かと待っている場所もあり、ほんとうに上の山はいいところです。
今は毎日大変なことが続く障害福祉の仕事ですが、喜んで待っていてくれる人がいるこの仕事に就けたことは私にとってこのうえない幸せです。
この頃名東福祉会の各施設の製品販売売り上げ向上にどうしたら貢献できるかと私なりに一生懸命考えています。
私にできることはないかと・・・。
あれやこれやろ思いめぐらしていたら昔の話を思い出しました。私がまだ天白ワークスの所長をしていたころですから、今から15~16年前の事になってしまいますが、石川県金沢手をつなぐ親の会から傘立て8本の注文をいただきました。どうやてお届けするのかが課題です。
天白ワークスの傘立てはすべて手作りの陶器で割れやすく、重く、かさばります。当時はそうした商品の輸送にはかなりのお金がかかりました。輸送代の方が商品よりも高くなってしまいたいへん申し訳ありません。
結局、「私が運ぶわ」ということになりました。
ちょうど私の長男が夏休みで入所施設から帰ってきます。息子を乗せて名神高速道路から北陸道に入り、金沢市内で親の会が会合をしている場所に着きました。
親の会の人たちが出てきて目をまん丸くして「ひとりで運転してきたの?」と驚きました。当時は私も若かった・・といっても65歳。でも、傘立てはひとつも割れていません。ひとつひとつデザインが違う天白ワークスの作品を私は誇らしげに降ろして手渡ししました。
「まあ、まずは休憩を」
といって下さるのを振り切り、長男が待つ車にまた車に乗って向かったのはイーハトーブの森。
目的を達成でき、みなさんからもほめていただけて私は意気揚々とドライブです。金沢から富山、魚津、黒部川と左側に日本海が見えます。日本海と空の青さに心は晴れ晴れとしました。
糸魚川あたりまで登ると、風光明媚な箇所があり、あの有名な「親不知(おやしらず)子不知(こしらず)」だとわかりました。昔、海に面した街道で、右には断崖絶壁が迫り、手をつないでいた親子もひとりひとり走ってとおらないと大きな波にさわられてしまうとか。私は息子に
「こんな怖いところを楽にとおれるようになったのは高速道路ができたおかげだね。私たちも昔の道を通ってみる?」
とわかりもしないだろうと軽口をいってみました。すると長男は身を固くして車の中を後ろに後ずさりして小さくなりました。びっくりしました。
「ごめんごめん。もっと楽しい話をしよう。そんな怖いところは通らないからね。」と謝りました。
でもそこからは高速道路ではなく148号線。糸魚川kら国道の山道は険しく、右も左も山また山。急勾配をアクセルいっぱい踏み込んで登ってゆかなければなりません。ふと気づくとガソリンがあとわずかになっていました。しまった、糸魚川で入れてくれば良かったと思っても後の祭りです。長男も緊張した表情になっています。
ガソリンメータと道を見ながらヒヤヒヤしましたが、なんとか小谷まで入りまいり、白馬近くまで来たなと感じたとき小さなスタンドがありました。
「よっちゃん、よかったね」
と喜ぶ私を見て、長男も緊張した顔がやっと溶けました。
美しい白馬を見て、大町に入り、大好きな「花の木」というレストランに入って気分が落ち着きました。後はイーハトーブの森が目の前です。わかりもしないだろうとたかをくくって息子に話をして不安を与えたことを心から反省しました。
施設はいいものをせっかく作っても、売ることが難しくなかなか授産製品の販売は思うようにできません。こんな私でも何か
お役に立てることはないかと年老いてもなお思っている私です。
合同家族会役員会のあと、知的障害者通所授産施設TUTTI(定員40名)へ見学に行かせていただきました。
参加者は家族会役員の皆様。
8年前より名古屋市名東区に小規模授産施設として解説されて依頼のおつきあいです。私は当時、メイトウ・ワークスの所長でした。
通所授産施設の竣工式に参加させていただき、ほんとうに立派な施設が開所されたことを共に喜んでいました。
今日はTUTTI開所3年目に入って立派に運営されているのを見学させていただき、とても嬉しく思いました。
障害者自立支援法実施による厳しい施設運営の中、地域貢献を柱に
・新規事業のレストラン
・地元野菜、米などの店頭販売
・生協のリサイクル作業
・軽作業
・配食サービス
・リサイクル自転車の自主事業
このほか3階の一部に和室が二部屋あって、地域の障害者のためにお泊まり会を月1回、NPO法人と提携してやっているそうです。
いろいろこなされている活動的な通所施設に感嘆の思いひとしおでした。
TUTTI(トウッティ)とはイタリア語の「協奏曲」が転じて、「皆さんご一緒に」という意味だそうです。障害のある人もない人も、地域で一緒に暮らすことを願ってつけられたとのこと。
また、施設のモットーは「生きる、働く、楽しく暮らす」
利用者の皆さんの生き生きと楽しそうな姿を見て、実感することができました。
私たちはレストランで「鮭の定食」をいただき、同じ食堂でモクモクと食べておられる利用者さんと地域のお客さん一組も交えて、おいしくいただきました。
食器を下げるときにも丁寧に運んでいきました。食事が終わってコーヒーを注文すると
「コーヒー5つに紅茶1つですね」
と復唱して定年に運んでこられました。注文しなかった人にはお茶が出ました。
お母さんたちの中には
「うちもダウン症だけれどあれだけのことはやれん」
とため息をついておられました。
所長さんは
「繰り返しやっているうちに覚えたのですよ。特に指導はしていませんが、親さんと一緒に行ったレストランでああやるといいなと思ったのではないですか」
と言われました。毎日の積み重ねの重要さをつくづくと感じました。
三階の屋上にはハーブも作られており、7種類を三日間コトコトと煮込んだカレーもあるそうで、この次はそれを頂きにまた来ようかなと思いました。
9月21日は愛知県知的曽湯会社育成会が主催で、成年後見制度について研修会が岡崎で行われたので
日進市育成会の人々と共に参加させていただきました。
講師は全日本手をつなぐ育成会中央相談室長の細川瑞子氏。
氏は富山県で弁護士のご主人とともども育成会で活躍され、以前から存じ上げていたので久しぶりにお目にかかりたいと思い、私も参加させていただいたのです。
240名以上の参加人数で、講演終了後グループ討議を行いました。各グループから先生はひっぱりだこで、あとから聞くと、どのグループからもとてもわかりやすく「成年後見制度」が理解できたと好評でした。親なき後を憂うのではなく、親あるうちにきちっとしておこうという主旨が理解できたようでした。
今後は、新しい時代にあった本人の権利擁護にむかって育成会は動かなければならないし、親にかわる人生の伴走者としての後見人制度を完備させなければならないと思います。
先生は権利が擁護されるために
1 地域サービスを整備する
2 「本人を護ること」すなわち権利擁護のあり方を問い直す
3 後見人制度をとりあつかう民間機関を整備する
などの提言をされました。
私たちのグループ発言のなかで、今世話になっている施設の職員がこのままだと結婚しても暮らしてゆけないと転職してしまうのではないか職員が喜んで勤務してくれるにはどうしたら良いのかと強い口調で後見人制度よりも障害者自立支援法を何とかしてほしいという意見も出てグループ長さんはとりまとめに大変でした。
レジデンス日進の屋上はこの暑さで少し弱り気味です。
でも萩の花、おみなえし、すすきが初秋の風情をかもしだしています。それに、水盤のほていあおいがみごとな花をいっぱい咲かせてくれました。
残念なことに立ち枯れたラベンダーやシャクヤクもありますが、きっとまた、再起してくれることを祈っています。
レジデンスのお掃除は家族会の有志や野の花会のボランティアさんたちが、こまめにやって下さるので、ほんとうにありがたいことです。
レジデンスの利用者の中にもお掃除クラブなんかできてみんなで喜んでもらえるといいなあと思ってしまいます。
鹿児島の白鳩会のひとたちのみごとな農園、茶畑、花畑はみんなが根気よく手入れするので
農製品の優秀賞まで獲得してしまったんですね。すごいなあ!!
なにごとも努力、努力。私もがんばろう・・・・。
鹿児島県の社会福祉法人白鳩会を訪問させていただきました。
理事長 中村隆重氏のお話をお聞きしたり、ビデオを見せて頂いた後、
白鳩会が運営する各施設、農場等々、広大な土地とその取り組みを見学させていただき、ただただ驚き、感心するばかりでした。
設立して30周年、その業績もさることながら、設立当初から卓越した先見の明があり、その努力によって各施設、農場ほか、各種事業は今の時代にぴったりあっており
これからもなお研究努力して、知的障害者の福祉を推進していこうとする白鳩会の方針に敬意を表するのみでした。
鹿児島の最南端はあまりにも遠く、交通に時間がかかって訪問は短時間少し残念でしたが、
理事長さんの考え方をひとつひとつじっくり思い出すと、訪問させて頂いたことはいくつになっても「学び」を体得することだと思います。
「共に育つ」「考え合う」「求め合う」「分かち合う」
という白鳩会の理念の奥深さと、職員を大切に思われているお心に共感を覚え、見学させて頂いたことを心から感謝申し上げます。
後日、ビデオが送られて来ましたら、見学報告会を行いたいと思います。
天白ワークスのKさんの妹さん(67歳)が亡くなられました。熊本在住の弟さんが駆けつけられ通夜告別式をされました。
Kさんは亡くなられた妹さんと二人暮らしでした。
妹さんはKさんに
「もし、自分が死んだら弟のところに電話するんだよ」
と日頃から教え、メモを渡してあったようです。Kさんはそのとおりに弟さんに連絡し、弟さんが来名されすべてを片付け、熊本のご自身の家の前にある借家がちょうど空いたのでそこにき引き取るとのこと。本人も家族も納得しているとのことにまずはひと安心しました。
名東福祉会がスタートして以来、私は似たようなケースをいくつか経験してきています。今回は遠くに住んでいらっしゃる弟さんがすべてを解決してくださったのにはたいへんありがたいことだと心から感謝します。
Kさんは15年も前に天白ワークスの記事が新聞に載ったとき、大きく私の顔写真が写っているのを見て、妹さんに
「この会社の社長だったら働きに行ってもいい」
と、妹さんと来所されたことから始まります。
天白ワークスは会社ではないこと、工賃は少ないこと等々を納得していただいて15年。楽しいエピソードもたくさんありますし、
仕事をすることに厳しい面ももっていましたし、重度の利用者に対しては最も手厳しく、時々怒って所長に訴えてくることもありました。
旅行に行ったときには私と々部屋でふたりで寝ることができるので、妹さんのことやお母さんのこと、彼氏のことまでも話をしてくれたことを思い出します。先日、天白ワークスでお別れ会をした時、楽しかったことのひとつとして
「旅行で所長といっしょに寝たね」
と思い出話をしてくれました。
障害を持っている子を持つ母親は、いつでも自分が死んだらこの子はどうなるだろうとみんな思っています。
年老いて両親が亡くなってからも、ずっと兄弟姉妹で生活の面倒を見ているケースをいくつでも私は知っています。
Kさんの妹さんは、自分が熊本から集団就職をして名古屋に来た時以来、ずっとみ続けて、自分が定年退職をしてこれから少しは人生を楽しく生きてほしいと思う時に急逝されたことはあまりにも悲しいことです。私は心ゆくまであなたと話がしたかったと悔やまれます。
あなたは、「これも運命だからあたりまえ」と、さらりと話されるのでしょうか。
キャンプ
子どもたちの夏休みが始まりました。各所で多彩な催しが行われています。
なかでもキャンプは子どもたちに人気の高いプログラムであり、学びの場であると思います。
長男が半身マヒの障害児となった3歳のときから、私はいろいろな親子体験に挑戦することに努めました。
あるとき、朝日キャンプが行われることになり、私が所属していた麦の会(重度心身障害児の親の会)からも3組の親子が参加することになりました。
キャンプ地は犬山市。日本ライン下りで有名な木曽川のほとり、桃太郎伝説ゆかりの地です。キャンプ名も「桃太郎キャンプ」と名付けられました。
私はちょうど3人目の子どもができたころで、大きなおなかを抱えて参加しました。
私の長男は多動で少しもじっとしていてくれません。油断するとすぐに川に向かって韋駄天走りをします。半身マヒなのに速いのです。
そこで学生さんがついてくれることになりました。てんやわんやのキャンプでしたが、得るものがたくさんあったキャンプでした。
キャンプは楽しくて、人の心のつながりも深めます。
日中、思う存分走り回った長男はざら板に毛布一枚のベッドでぐっすりと寝ました。
このときいっしょのテントで寝た3組の親子はあとあとまでいろいろ助けあって長い年月おつきあいすることができました。
以来、あさみどりの会が主催する南山大学学生のキャンプだとか、中日新聞社会事業団の中日キャンプなど、主催者、共催者としてたくさん関わらせていただきましたが
なんといっても最初に参加したキャンプは忘れられません。
長男は今はもう56歳。初老です。このときおなかにいた長女も48歳。主婦として平和な毎日を送っています。
思えば長い道のりもあっと思う間に過ぎました。これからは若い世代に希望を託そうと思います。
私が育った環境は父や母、それに祖母まできれい好きで家の中はもちろんのこと、
庭や家の前の道路までいつもゴミひとつ落ちていない我が家だったと記憶しています。
それなのに私はいつもまわりの人から整理整頓ができないとしかられてばかりの人間です。
本人はこれはこれで整理ができていると思っていて、
ちゃんといつでも必要なものを取り出すことができると豪語してきましたが、
年を重ねるに従って何がどこにあるのか、だんだん怪しくなってきました。
おまけに「もったいない」と思う気持ちも年々強くなり、家の中では飽きたらず
家の外の物置までものがどんどん増えるばかりです。
大切に家にしまってあるものは、あちこち出かけたときのお土産品や手作りの小物、いろいろな方々からのお手紙や、おもしろい場所のパンフレットや広告、メモ、
いろんな会合の印刷物や資料などまで紙の切れ端や書類が整理できずに山になっています。
人様から見ればどう見ても紙くずの山・・としか見えないかもしれませんが私にとってはなかなか捨てられないものばかり。
先日、急にベランダを掃除したくなりました。
段ボールを移動し、法規で掃き出したとたん、ハチが5匹くらい襲ってきました。キャッア!と大声を上げ、
右手で防いだと思ったら右手の甲を数カ所刺されてしまい、なんとか払いのけて部屋に逃げ込みました。
見ると、ベランダにはハチの巣がぶら下がっています。まだ数匹がいたため、急いでスプレー式のジェットアースを
吹き付けると飛んでいたハチはどこかへ逃げていってくれました。
ハチの巣はハチの子には申し訳ないけれどたたき落とし、ゴミ袋へ入れました。手の甲は赤く、ポンポンにふくれあがり
痛がゆくてたまりません。その日は虫さされの塗り薬をぬって寝込みました。
明くる日は洗面所にあったタオルを濯ごうとしたところ、左手のひとさし指に激痛が走りました。
そのタオルの中にムカデが潜んでいてムカデに噛まれたのです。縁日で売っているあの派手なおもちゃのようなムカデでした。
レジデンス日進に出勤しようと車を運転し始めると、噛まれたところがむちゃくちゃ痛み出しました。
事務所で「痛い、痛い」と騒いでいると、看護師さんにお医者様に行った方がいいと勧められ
近くの整形外科で手当をしてもらいました。
ムカデに噛まれたところはいつまでも実に痛かったです。
なぜこんなにも良くないことが起きるのかと反省しました。
仏法では昔から掃除に始まり、自分の心を清め、人のためにつくすのが根本だと聞いています。
聞いてはいるのですが「掃除は嫌い」「心臓に負担がかかる」と屁理屈を言っておろそかにしていたところ、
ハチとムカデにしこたまお灸を据えられ、「もうごかんべんを」と祈っている私です。
今日は我が師が40年前に揮ごうして下さった色紙「脚下照顧」を取り出し、神妙に反省しています。
愛知県心身障害者コロニーの地域移行推進課の主催で現地見学会がこれまで3回開催されています。
私はなんでも体験したいたちなので参加しています。
今回は社会福祉法人みなと福祉会です。
市営住宅の1階を改装してグループホームにした「みなとホーム南陽」
昨年7月に開所した知的障害者通所更生施設「うろじの家」
毎日、ホテル食パンやフランスパンなど30種類以上のパンを焼いている「ぱんだふる」などをまわりました。
お弁当を作って地域の高齢者に宅配をしている「しおかぜ作業所」についてのお話も伺うことができ、みなさん感心されていました。
愛知県コロニーの入所授産施設からこちらに移動してきた人の生き生きとした顔に、今も愛知コロニーを利用者しているお母さんたちは驚き、かっての旧友に再会できて手を取り合って喜びました。
ほんとうに楽しそうに暮らしている姿を見ると、受け入れて下さった施設側のいろいろな努力が忍ばれました。
愛知県では愛知県心身障害者コロニー再編計画が打ち出され、コロニー利用者の人たちが地域の社会福祉法人へ移動していきました。
これまで40年間、地域の中にとけ込んで生きていく愛知県心身障害者コロニーになれなかったことが悔やまれます。
昭和42~3年ころの話だったと思います。この頃の親の願いは知的障害があっても学校教育を受けられること。養護学校義務化の法案が通り、名古屋ではすでに多くの特殊学級ができていました。
でも、せっかく通えるようになった学校ですが、特殊学級は学校の中で孤立しているというのが親たちの間で大きな問題になっていました。孤立しているのは生徒たちだけではなく、先生も親も孤立していて、ほとんど交流はなかったのが実情です。
それでも非常にユニークな「名物」の特殊学級担任がたくさんいらっしゃいました。学校での特殊教育が楽しく実りあるものになるためには他の生徒さんたちとの交流が非常に大切であることを、その当時から特殊学校の担任の先生たちはご存知であったのです。反面、特殊学級に配属されたことを非常に落胆され、どう手をつけていいのか考えあぐねている先生たちも多くいらっしゃました。
名古屋手をつなぐ育成会の事務局長をしていた関係で、特殊学級に在籍している親から相談を受けたことがあります。
「PTAの役員になって特殊学級の先生たちを孤立させないようにしたり、生徒を暖かく迎える雰囲気作りを特殊学級の親たちが率先してやってほしいのです」
と切り出しました。
「でも、学校では特殊学級の親はPTAに入っていません。だから役員にはなれません。」
「校長先生と話をするような機会はありません。」
そんな答えが返ってきました。どんなに自分の子どもが悪いことでもすぐに校長先生に怒鳴り込む今の時代とは全く違っていました。
特殊学級の担任がおかれている厳しい孤立感や疎外感、親たちが感じている悩みをいろいろな人々にお伝えしているうちに、私は名古屋市の教育長とお話をすることになり、結局、学校校長会で特殊学級の実情を話す羽目になりました。
その後、知恵遅れの人たちをなんとかしなければならないという雰囲気が生まれ、「ちえの友鉛筆」という鉛筆の共同購入運動を学校を通してやっていただけることになり、手をつなぐ育成会の収益となり、その後の障害者授産施設建設のためにたいへんありがたい結果となりました。ただ、ちえの友鉛筆の運動は特殊学級担任自身の反対者もあり、知的障害がある子どもたちが支え合って健やかに生きていくという目的には遙かに遠い道でした。
7月2日 「花」というグループがあります。日進市を中心に活動をしている障害児の母親のグループです。
この会が主催で豊明市のメイツの理事長、三浦さんの講演がありました。テーマは全国組織の手をつなぐ育成会のこととか豊明メイツの活動の内容です。
若いお母さんたちは自分の子どもたちの学校教育修了後、卒業後の進路をどうするのかが最大の関心事。
今どんな進路があるのか、その進路に進むためには今何をしておくべきなのか、みんな真剣です。
こうして法制度が動いているときはなおさらです。
明けて3日と4日は長野県松川の奥にある大鹿村というところに行ってきました。
山奥に昔の庄屋さんの家を借り、米をつくり、畑を耕し、陶芸や絵を描いている人がいます。
夏にはおおぜいの人が訪れるので自炊をして夏を過ごすとよいとのこと。
紹介して下さったのは日進市にある精神障害者の授産施設ゆったり工房のK先生。
「遠いので私が行くときさそってあげますよ」
とK先生。でも、そんなことを聞いたらいてもたってもいられない私は友人をさそって出かけました。
南アルプスの青いケシの花を見に、山のてっぺんまでえっちらおっちら登り感動したまでは良かったのですが、
思いもかけず山の中で道に迷い、予定の時間が来ても目的地へ着けません。簡単なハイキングでもさすがに大自然の中。侮ることなかれです。さんざん苦労したけれど楽しかった。とても良い体験となりました。
いろりで鮎を焼き、国産大豆の豆腐を食べ、とてもいいお食事でした。でもやはり、昔の庄屋さんの家。やっぱりバリアフリーとはいきません。私の長男には無理だとわかりました。
6月26日は麦の会の一年に一度の例会がありました。
麦の会とは重度重症の子どもを持つ親の会です。
結成されてから50年ほど経過し、ご主人を亡くされた人、障害の子が亡くなってしまった人などいろいろと変化がありました。
みなさんの近況報告から障害者自立支援法の成立により、愛知県コロニーの今後について議論が沸騰しました。
「50年間苦労してきて、最期まで看てよ」と声を荒げる人もいれば
「いろいろ考えると、今後は名東福祉会に頼りたい」という発言もでます。
「親が亡くなった後も我が子が地域の中で楽しく暮らしていく様を垣間見てから死にたいね」という発言もあります。
振り返ってみれば、私は麦の会の友達と知的障害者が少しでも楽しく生きていけることを夢見てこれまで生きてきました。
名東福祉会に対してたいへん大きな期待を寄せられる声をお伺いし、ずしりと責任を感じた一日でした。
我が子が障害を持つようになり、自分を責めて責めて責めぬいた時期、
悔し涙に明け暮れた日々
障害があることをあきらめはじめた日々
麦の会の人たちと出会い、自分だけではないことを知り安堵した日々
同じように悲しみをもった人たちのために役立ちたいと思い始めた日々
福祉行政を進めるために役所の人たちといっしょに懸命に制度をつくろうとした日々
困難を与えられたことがかえって幸せに思えるようになった日々
思えば前に進んだと思えば、あとにもどったりです。
麦の会の人たちはそうした私の思いとまったく同じような心情でいっしょに過ごしてきました。
この友人とともに歩めたことを深く感謝しています。
久しぶりに東京で行われたある会に出席しました。
この会には北海道、山形、新潟、千葉、東京、静岡、名古屋、大阪、奈良、岡山、九州と日本各地から集まってきます。
メンバーは町長や社長、大学教授、社会福祉法人の理事長や施設長、医師、官公庁の課長、施設職員、障害者の親、障害者本人など多彩です。
共通点は障害者とともに生きること。様々な方々が自由に参加できる会です。
まず、自分の近況を語った後議題人入ることが慣例。それぞれの近況は全くバラエティに富んでいて楽しいものです。
例えば、56歳の建築家と44歳の写真家の結婚の報告。
定年退職をしたが思い切って快適な老人ホームに入居したからどんなところか見学においでという話。
数千万円の頭金と○十万円の月々の利用料がかかるが暮らしにはたいへん満足しているとのこと。
60代の男性は最近離婚して別居をしているが、家内が離婚届をまだ役所に持って行っていないので、どうなるかわからないとの報告には
なぜかみんな大笑いでした。
中には初めて就職したのが糸賀一雄先生のところで、池田先生や田村先生といっしょに働き、いろいろ勉強させてもらい、いまだに障害者支援センターで定年退職後も働いているという先生もあり、
この会員のすごさを今更ながらに実感しました。
しばらく障害者自立支援法の話になり、みな施設運営の大変さを思い知らされました。
終了後、友人が小金井に住んでいて一人暮らしだから気兼ねなく泊まってくださいといわれるので、何でも体験したい私はノコノコと友人のマンションへ付いていきました。
すてきなマンションで、亡き母親のかたみという古い家具類に囲まれ、快適な睡眠をとらせていただきました。
翌日、すてきな朝食を頂いた後、地域の介護センターとヘルパーの詰め所を見学させていただきました。パソコン教室、織物教室も手がけ、親たちの手作りの品から死せ宇tの手作り品までなんでも売っています。
地鶏の取り立て卵もあるし、ゼリーやクッキーもあります。親、ヘルパー、ボランティアが5-6人でローテーションを組んでいますが、採算が合わない。けれども大きなやりがいがある。
きっと全国でこのようなお店がいくつも開かれているのだと思いました。町の中で生きることの難しさの反面、地域とともに歩んでいる実践が輝きます。
次に訪れたのはかねてから見学をしたいと思っていたお弁当屋さん。
私にはもうひとり、弁当屋さんを会社組織で大きく事業展開している友人もありますが、今回は地域の中のお弁当屋さんです。
たいへん多彩な才能を持たれた方で、本を出版し、書道や詩も手がけられます。
近所のすてきな日本料理のお店で昼食をいただきながら、根掘り葉掘り経営について質問させていただいた。
私はもう15年若かったらと人生終盤になってる自分の立場を思いめぐらし、新幹線の中では居眠りもできないほど、充実した2日間を思い出しました。
6月22日の午前中のこと。長年、ボランティアで施設につくしてくださった人の家族から
「病状が末期症状となり人工呼吸器をつけている。病院からは3ヶ月以上たったので病院からでなくては
いけないのだが、次の病院が見つからない。」
と電話がかかってきました。
「やってみるから少し待っていて」
と、ある病院に電話しました。そこは機械が8台あるから何とか受け入れるのではないかとの返事。その旨早速連絡を入れ
「後は、今の病院から出る日、受け入れる日を直接やりとりして頂けばよいから」
と伝えておきました。人生の末期の時期というのにどうしてこんなにもばたばたしなければならないのでしょう。
私はこの仕事をともに歩んできた人の最期の状況は私自身のことのように思え、胸が痛みました。
一昨年の今頃、私の片腕となってくれた親友が亡くなりました。今年は3周期にあたるからどうぞお参りに来て下さいとご家族からのお電話をいただきました。手製のお墓を立て、白い花の木を植え、廻りにはなずなの花がいっぱい咲いているといいます。でも、友人のこと、
「私は死んでなんかいませんよ。千の風になってあの大きな空を吹きわたっています。」
と声が聞こえてきそうな気がしました。
時間があったらお墓参りに行ってみたいと思います。きっと私はお墓の前で泣かないことを約束しますから…。
7月21日が来ると私は79歳になります。それで自動車運転免許も更新の時期となりました。
それに先立ち、自動車学校で高齢者研修を受けてまいりました。
高齢になるとどうしても目が悪くなり、バイクや子ども人の飛び出しなど対応が遅くなるということで、テスト機械を使っての反応検査を行ったり、目の検査を行ったり、実際に車に乗って実習も行いました。
参加した人はみな70歳以上で皆さん高級車に乗って研修会場まで来られたのですが、私一人が軽乗用車で。
みなさん口をそろえて「軽は危ない。年をとったらせめて普通車になさらないと・・・」と言われました。
最近の軽四輪はとても良くできているんですけど。
私は「日進は道が狭いので軽でないとダメなんです。」と言い張っていました。
指導員の先生も
「常は軽に乗っておられるのでしたら、少し加減をしてテスト運転してください。」
と注意してくださいました。
やってみるとクランクの左折、右折もうまくいき、後輪や前輪を道から落とすこともなく、おまけに車庫入れもぴったり!!
この中では最高齢だけどうまくやれたと内心ほくそ笑んでいました。
けれど成績表は
1 スピードの出し過ぎ
2 左折、右折が大回りすぎる。
全体的の評価はゆっくり、焦らず落ち着いて運転しましょう。
とありました。トータルの成績は5段階評価の3でした。トホホホホ・・・。
自慢、高慢はなんとやら。車の運転は常に謙虚に最新の注意を払って慎重に運転すべきだと肝に銘じました。
長時間の再講習をめんどくさいと思っていましたが、やはり時には我が力量を再確認することも大切であると反省し、
楽しむこともできた高齢者向き運転講習会でした。
6月18日は名東福祉会の後援会総会でした。
梅雨時で雨の心配もありましたが、たくさんの後援会員の皆さまが参加してくださってありがとうございました。
今回は盛りだくさんで、物品販売もやれば講演もある、おまけに例年好評のコンサートも盛り込まれ、時間通りに進行したものの、皆さんご満足いただけたか心配いたしました。
皆さんの感想は思ったより良くて、やれやれとまずは安堵いたしました。
理事長は毎度お金の話ばかりで・・と恐縮しながら、自立支援法に切り替え以来、繰り返していますが、
経営が困難なこと、良い職員を厚遇できないこと、でも利用者の皆さんの処遇は最高であること等を短い挨拶の中でいいました。
小島生活支援センター長の講演は自立支援法についてたったの30分の解説であったのにみんな
「良くわかった。今までいろいろ聞いたがちっともわからなかったけれど、良くわかった」
と、納得された様子。うれしいことでした。
その後のコンサートの音色の良かったこと。
演奏者たちは「聞き手がいいと不思議なほどぴったり息があって良い演奏ができるのです」
とおっしゃっていましたが・・・・みんな感動していました。
さて、来年はどうするか。後援会そのものを根本的に考え直し、よりよい後援会として再出発せねばと思いますが、みなさんのご意見をお寄せください。
その後、名東福祉会本部の方に、ご寄付が寄せられています。早速にご厚志ありがたく、御礼申し上げます。